寝屋川市国松の箱だんじり・・・・
毎度、だん馬鹿です

少々更新間隔があいてしまい、この「だん通」を愉しみにしているユーザーの皆さんには、申し訳ない、申し訳ない・・・・。
50に手が届く歳ともなると、週末の撮影の疲れもとれぬまま、翌週の撮影へ。
9月に入ってから、週末は地車祭・入魂式などの撮影の繰り返し。
10月になり、各地の祭礼を怒涛の如く飛び回り、車の走行距離もうなぎ登り。
特に今年は週末に雨というパターンが多く、身も心もボロボロ状態。
そんな週末の撮影地獄も、来週でほぼ終了。
この「だん通」の更新頻度も、祭が終われば上がるのかも!?
まあぁ~、ネタがあればの話しですが・・・・。
さて、前回の更新から10日。
満を持してお届けする本日の「だんじり通信」は、昔ながらの姿を色濃く残す一台、寝屋川市国松の地車を紹介しましょう。

国松の地車は、二年に一度、隔年に曳行されています。
今年は10月17日に曳行がおこなわれるとの情報を得、撮影の合間をぬっての強行軍。
国松を訪れるのは8年振り。
現在の愛車、ホンダフィットを購入直後に訪れて以来の訪問。胸躍る気持で、国松の地を訪れてきました。
国松の地車は、地車研究者の間で『堺型』と分類されるもの。
腰回りに8本の柱を配し、土呂幕は虹梁を挟み数段に分割されているのが特徴。

往古には堺周辺で多く見られた地車で、堺周辺の保有町では「箱だんじり」と呼ばれていたもの。
国松の地車は元々、「担い棒(肩背棒)」が四方に巡らされてなく、正面土呂幕の上部から左右2本角材の担い棒が引き出されるようになっていたもの。
現在は「火燈窓」状であったであろう土呂幕は現在欠損していますが、地車の内部には引き出し式の担い棒が取り付けられていた金具も残っています。

特に、見送りの後正面は土呂幕部分まで一枚通しで細工されており、そのため勾欄・縁葛部分は脇障子までで、見送り部分まで廻っていないもので、現存する『堺型』地車の中でも古いタイプのものであるとされており、製作年代も江戸末期ころと考えられています。

もちろん、堺の地車大工の手により製作されたもので、彫物も堺の《彫又》一門の作。

地車内部、彫物の裏面には《彫又》二代目「西岡又兵衛」、謎の彫物師「西岡京八」と読める墨書きも残っており、まさに堺からこの世に送り出された『Made in Sakai』と呼ぶにふさわしい一台。
堺市も、このような地車を堺が生んだ文化財のひとつとして認識して欲しいものです・・・・。

なお、国松の地車は、明治20年代(明治22年とも、明治28年とも・・・・)に守口市金田より中古で購入されたものと云われています。
私が国松を訪れた10月17日は、午後から曳行されるとのことで、現地に到着したのが13時30分ころ。
早くも、地車小屋のある春日神社境内を出て、国道170号線付近で休憩中。
8年前に見た時と何ら変わりないその姿に感無量・・・・。
久しぶりの対面に、「よくぞ無事曳行!」と堺住人の一人として国松の方々に感謝の言葉すらさしのべたいくらい。
しかし、曳き手は、よちよち歩きの子供からご老人までと幅広いものの、若者の姿のないことが残念。

この地車の将来を担う若者が皆無であることが気がかりではあるが・・・・。

しばし休憩の後、神社へ向けて曳行再開。
曳き手の減少もあり、お昼から2時間程度の曳行。

午後2時すぎには、神社横の坂道を登り、境内地車小屋へ納められました。

やはり、祭の中のだんじり曳行。朝から晩まで鳴り物を打ち鳴らし、曳行されないのが残念でならない私・・・・。
その分、地車が傷むほどのこともないのが幸かも知れませんが、せっかくの名地車も心なしか寂しそう。
往古の村をあげての一大行事も、娯楽の多種多様化、生活構造の変化も手伝ってか、神社の祭礼、「だんじり」そのものへの関心も薄れてしまっているのかも知れません。
願わくば、村(町)をあげての大切なものであると再認識し、後世に伝えていただきたいものだと思いながら、国松の地を後にしました。
次の祭礼、地車の曳行は平成24年10月14日かな・・・・?
地車を愛する皆様、特に「箱だんじり」ファンには是非とも見に行っていただきたい名地車。
私も再会できることを願いながら、今日の「だん通」はこのへんで、おしまい・・・・。
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