大阪狭山市山伏の入魂式・・・・
まいどぉー、だん馬鹿です

昨日の尼崎市貴布禰神社の『山合わせ』で、6月下旬から始まった夏のだんじり祭シーズンも滞りなく終了。
連日連夜の撮影で、ヘロヘロヘロッピ状態の私 だん馬鹿さん。

ようやく、灼熱地獄の中での撮影から解放されたと思えば、9月の『岸和田祭』まで50日足らず。
8月中にも、大阪市内では区民祭り、西宮市では市民まつり、貝塚市二色では泉州地域で一番早いだんじり曳行と、週末になればまたもや撮影・・・・。
気分的には、気温27度を超える日には地車曳行禁止の御触れが出ないものかと思う昨今(そんなわけないかぁー?)。
避暑地の木陰で、涼風に吹かれながら、かわいいお姉ちゃんとカクテル

さて、久々更新の今日の『だんじり通信』は、去る7月18日(祝)におこなわれた大阪狭山市山伏の修理完成入魂式の模様をお伝えしましょう。
今年の初め、「山伏の地車が池内工務店で修理している」との噂を耳にしました。
十数年前にダイエー金剛店の駐車場で初めてこの地車を見て以来、昨年の狭山パレードでちらっと見た程度のこの地車。
修理とあらば、入魂式もあるはずで、初めてじっくり見れる機会が訪れたと、少々心うきうきの日々を送っていましたが、先程おこなった『第7回チャリティー地車見学会』の打ち合わせの席上、7月18日におこなわれることを同市川向の方から情報ゲット。
「これは何としても見に行かなければ!」と思いながら、当日を迎えました。
しかし、当日は午前中から降りしきる雨・・・・。


当日に搬入、神事は午前9時から、午後からお披露目曳行の予定と聞いていたのですが、午前8時過ぎに見に行っていた友人K氏から、ビニールにくるまれ据え置かれ、午後からの曳行も急遽中止との連絡。
しかし、見るだけでも見ようと、午前9時過ぎに現地へ到着。

神事が始まりましたが、ビニールシートは外されることもなく、彫替えられたという「獅噛み」も見れず終い・・・・。
そうこうしているうちに、神事も終わり、招待者などは宴席へ・・・・。

その頃には、雨も小降り。ビニールシートも外され、地車の前で町内祭礼団体での、記念撮影もおこなわれだしました。
どうやら、招待されていた近隣の山本・隠の両町は、地車を小屋から出し、表敬訪問に来るのを待っているらしく、小雨模様の中、午後からのお披露目曳行決行が決定。

午後12時過ぎには、式典会場を後に、高野街道に面する旧村落へ向け曳行が始まりました。
今回の修理は、岸和田市の《池内工務店》にて本体の洗い・締め直しがおこなわれ、大屋根正面の獅噛みと正面の土呂幕が富山県井波の野原湛水 師の手により彫替えられたようです。
もともとは、江戸末期から明治初期に製作されたと考察できる地車で、彫物は《彫又》一門の手により細工されたものと思われます。
昭和63年には、岸和田市の《天野工務店》にて大改修がおこなわれ、この地車の一番の特徴である「板勾欄出人形」式の勾欄部分は「擬宝珠勾欄」に改められ、原型を留めていないのが、板勾欄ファンの私としては残念でなりません。

しかし、柱巻きや見送りの出人形、左右後の土呂幕などは、もともとのまま。

改修前の姿を見ておきたかったと、後悔すること暫し・・・・。
このようなケースは山ほどあるのが現状。修理前の姿写真をお持ちの方がおられましたら御連絡のほどをお願いします・・・・!
また、山伏では大正末期に堺市逆瀬川より購入した地車であると云われています。

若者たちに曳かれた地車は、高野街道沿いの旧村落に到着。
1時半から、子供たち主体の曳行がおこなわれると聞いていたものの、子供はチラホラ。
この頃には、雨もほぼ上がっていましたが、午前中からのあいにくの天気のためだったのでしょうか。
そこから、私と写真担当スタッフは、顔合わせがおこなわれる山本へと先廻り。
山本の地車は、早くも地車小屋から出され、山伏地車をお出迎え。
待つこと30分、山本町内の駐車場で二台の地車による練り合わせがおこなわれました。

さながら10月の祭礼本番の様相。
地車の後部を持ちあげ、コマのように回したり。

お姉ちゃんたちも元気いっぱい、踊る踊る・・・・。
その場で、一旦シートが全て取り外され、彫替えられた「獅噛み」を山本の皆さんに披露されました。

ようやく獅噛みと御対面。
昭和63年の改修時に彫替えられたものに、似せて彫られたのだとか・・・・。

その後、山伏の地車は、隠へ向け曳行再開。
私たち取材チームは、夜におこなわれる福島区海老江の祭礼撮影のため、早めの移動。
山伏、山本の地を後にしました・・・・。
ちなみに、この山伏は大阪狭山市山本東と堺市草尾にまたがる地域。
地車小屋は大阪狭山市、会館は堺市に建っているのだそうです・・・・。
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