いつの日にか、金岡の地に地車囃子が鳴り響くことを願いながら・・・・
どもぉー、だん馬鹿です!
今日も暑い一日でしたなぁー。
私の住む堺市の今日の最高気温は、36.3度の猛暑日。
連日連夜の猛暑が続く今年の夏・・・・。
こんな日は夕立でも降れば少しは涼しくなるのでしょうが、降れば降ったでゲリラ豪雨に記録的な大雨も。
そういえば、堺市内ではここしばらくまとまった雨も降っていないような・・・・。
堺市内では、東部や南部の地域でもない限り、最近は青々とした田圃を見かけなくなりました。
昨今では専業農家も少なくなりましたが、今年のような猛暑や雨量の少ない年は、農業を生業とする人たちにとっては死活問題にもなりかねません。
往古から、水不足が深刻な年には、各地で「雨乞い」がおこなわれたなどの伝承が残るのもその確たる証拠。
深刻な水不足が度々発生する地域では、ため池などが多く見られるのも、往古の稲作を中心とした我が国 日本の産業構造を現すものなのでしょう。
さて、お盆の8月15日、堺市北区金岡町に鎮座する金岡神社で行われている金岡町自治連合会の『金岡町盆踊り大会』を見に行ってきました。

例年8月14・15日におこなわれる、その盆踊りの日には、旧金田村11ケ村の各町会から、組まれた担ぎ棒の上に鏡面で3尺(約90センチ)以上はあろうかという大きな太鼓を据え付け、若者たちが町内を担いでいます。


夕刻には、神社前で練りまわされたあと、境内に立てられた太鼓吊るし台に吊るされ、吊るされた大きな太鼓を打ち鳴らし盆踊りがおこなわれます。

近年では、盆踊りよりも、『暴れ太鼓』としてこの太鼓担ぎが、金岡の夏の風物詩として知られるようになり、多くの見物人で賑わいを見せています。

組まれた担ぎ棒の上に大きな太鼓を載せて担ぐようになったのは、大正の終わりごろで、その先駆けとなったのは大道町のよう。
それまでは、各村が一本の担ぎ棒に太鼓を吊り下げて、引きずるように運んでいたようです。

場所柄、神社の夏祭りのようにも思われますが、旧11か村(現 金岡町自治連合会)の年中行事のひとつ。
もともとは、この金岡神社の氏地内でも地車の曳行がおこなわれていました。
彼の地車大工 河村新吾は、この金田村の人。
それだけに、地車熱も盛んで、多くの地車が曳き出されていたことでしょう。
金岡神社氏地内から地車の姿が消えてしまったのは、今から130年前、明治16年(1883)に起こった大旱魃(かんばつ)が原因。
「未(ひつじ)年の大旱魃」とも言われ、全国的にも水不足が深刻であった年。
全国あちらこちらで、水騒動が起こったそうです。
金田村は、往古から水不足が深刻な土地柄であったため、娘を嫁がせるのもためらわれたというほど・・・・。
そのため、食べるものにも困り果て、各々の村が所有していた地車も売却されてしまったのでしょう。
平成13年の夏、金岡からほど近い堺市日置荘北町で現地車の新調入魂式がおこなわれました。

その式典の折、町会役員の方から、往古に大旱魃が起こり、地車を売却し、灌漑用のため池を掘ったとの話がありました。
先人たちから受け継いだそのため池が買収され、その代金で立派な地車が購入できたことを感慨深く話されたのが印象に残っています。
現在も金岡周辺にはため池が多く、地車売却代金を灌漑用のため池を掘るために充てたのかも知れません。
私の知る限り、旧 金田村(現 金岡町自治連合会)の東御坊・九頭神・大道・馬場町・西之辻・西御坊・芝之内・井之尻・二軒茶屋・中之町・堂之辻の11か村の内、御坊町と中之町は《住吉大佐》の『大佐地車請取帳』に、明治9年(御坊町)と10年(中之町)に地車の修理をおこなった記録が残っています。
大道町や馬場町にも地車があったそうで、馬場町の地車小屋は大正の初めまで残っていたそうです。
現在では、全国的にも農業を生業とする人が減り、稲の作付け面積も減少。
往古のように、よっぽどの大旱魃でも起こらない限り、水騒動や大飢饉が起こることもありません。
金岡のみならず、現在の堺市内、はたまた大阪府下や奈良県下などでも、このような大旱魃が原因で地車が姿を消した事例が、まだまだあるのかも知れません。
大きな太鼓が、勇壮に担がれる金岡町の盆踊り大会。
担ぐ若者、見る町民たちの中に、往古に地車が曳かれていたことを知る人がどれほどいるのだろうかと思いながら、今日の「だんじり通信」はこのへんで失礼します。
いつの日にか、金岡の地に地車囃子が鳴り響くことを願いながら・・・・。
参考文献:『金田風土記』 1987.3 堺市金岡町自治連合会 発行
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