あぁ~見たかったのに、五軒家のだんじり・・・・
どもぉー、だん馬鹿です!
今年もだんじり祭シーズンが幕を下ろし、11月に入り山々の木々も色づき始めました。
朝晩は肌寒いくらいで、11月4日には近畿地方で木枯らし1号が吹いたとの気象台からの発表。
季節の移り変わりとともに、地車ファンにとっては、来春まで地車が見れない苦しみに苛まれる季節の到来。
皆さん、くれぐれも御自愛下さいますように・・・・。
今年のだんじり祭シーズンは終わってしまいましたが、祭礼以外にも、入魂式や地車参加型のイベントなどで、数多くの地車を見ることができました。
しかしながら、それらが一日に重なってしまえば、見に行くことはできません。
私をはじめ、当サイトの撮影スタッフとて同じこと。
スケジュールを調整し、移動時間なども考がえ、無駄なく回れるようにするのですが、少ないスタッフがゆえ、どうしても撮影に行けないところも・・・・。
また、祭礼や試験曳きと入魂式・イベントが重なった時などは最悪の事態。
我々撮影スタッフとて人の子、都合が悪い者がいれば、当然撮影班の組換え、友人・知人に無理を言い撮影協力をお願いすることも度々・・・・。
今年も10月の祭礼を目前に控えた、9月29日(日)が、まさにそんな日・・・・。
午前中に、忠岡町 道之町(土倉)の新調地車入魂式と泉佐野市内の試験曳き。
曳行はおこなわれないものの、奈良市二名(富雄)の修理完成入魂式。
修理が完成し、午前中に町内搬入、午後から神事と御披露目を兼ねた試験曳きをおこなう富田林市五軒家。
午後からは、泉佐野市の『第17回 ザ・まつり in Izumisano』に、堺市上神谷地区・高石市・和泉市郷荘地区・泉佐野市上之郷地区などで試験曳き。
この日、撮影可能な隊員は6名。
どうやりくりしても、全てをカバーすることはできず、富田林市五軒家の入魂式は、富田林在住の友人に撮影を依頼。
彼の協力がなければ、このブログでも紹介できないところなのでした・・・・感謝!

その五軒家の地車は、近畿一円に900台はあろうかという地車の中でも、小屋根下の見送り三枚板のような彫刻が大屋根下の左右に施された、『五枚板式』地車と呼び交わされる、現存4台の内の一台。

『五枚板式』とはいえ、同じ様式の千早赤阪村二河原辺の地車と同様に、腰廻りに8本の柱(内6本が通し柱)を配した『堺型』地車。
明治16年に奈良県大和高田市新町にて新調され、大正2年に五軒家が譲り受けたもの。
おそらく、堺の地車大工により新調されたもので、彫物は大坂の相野得兵衛・相野徳兵衛、そして「山鳥亭盛貞」の刻み銘を残す奈良は新庄の芦高妻三郎などの手が入った、五枚板式『堺型』地車の白眉とも言える一台。


今回の修理は、担い棒(肩背棒)の新調交換を主とした、小規模なもの。
8月25日(日)に、修理を手掛ける岸和田市の大下工務店に搬入され、一ケ月で修理も完成。

入魂式当日、午前8時30分過ぎに、搬送車に載せられた地車が町内に到着。

地車小屋が併設されている五軒家総合会館の駐車場で、搬送車から下ろされ、箱棟の取り付け、最終調整などがおこなわれました。

お昼をはさみ、午後1時から修理完成を神に奉告し、無事安全曳行を祈願し神事が厳かにおこなわれました。

五軒家の地車の横には、町内の手つくり子供だんじりも据え置かれ、共にお祓いを受けました。

午後2時すぎからは、いよいよ試験曳きを兼ねた御披露目曳行の開始。

駐車場内で横シャクリや地車の前部を差し上げるなど、練りまわし(オタオタ)が披露されました。

その後は町内を曳行。

多くの町民・見物人が見守る中、青年団らの手にゆだねられた地車は、道幅の狭い町内をゆっくりと進んで行きます。

担い棒の長さ次第では、曲がれないところもあると懸念されていましたが、無事通過。

青年団も祭礼本番を2週間後に控え、久しぶりの感触を確かめているよう。

午後4時には、総合会館に戻り、地車小屋の中に収められました。
類まれなる五枚板式『堺型』地車。
私 だん馬鹿さんも、久しぶりに見に行きたかったのですが、願いは叶わず。
この日は早朝から、忠岡⇒郷荘⇒上之郷⇒三日市と渡り歩き、家にたどり着いたのは夜10時をまわった頃。
祭礼にも行けずじまいでしたが、また何かの機会にこの名地車とご対面できることを願いながら、本日の『だんじり通信』はこのへんでオシマイ・・・・。
撮影に協力してくれたYちゃんに感謝・・・・!!
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