茶屋のだんぢり漫遊録

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あなたのまわりにもこんなことが・・・・

毎度~! だん馬鹿でおます。今年も残すところ二十日余り、世間では「忘年会真っ盛り!」ちゅう感じで、酒浸りの毎日を送っている地車ファンの方も多いのでは・・・・? 何を隠そう(隠してもしょうがないのですが・・・・)、我がケータイサイト『だんじり』を配信している、モバイルテレビジョン「地車事業部」も、昨日初めての忘年会をおこないました。場所は岸和田市内の某所。何を隠そう(これは隠しとかな・・・・)、この飲食店には、地車マニアが、涙を流して喜ぶほどの「お宝」が置いてあるのですが、まあ~それはそのうち、このブログで紹介しようかどうしようかと思案している、今日の「だん馬鹿」さんなのであります・・・・。

さて、先週の木・金曜日に『各町の地車』堺市草部・菱木地区をアップさせていただきました。皆さん、ご覧いただきましたかぁ~!?
その中で、『驚きの新事実!』として、草部地区馬場の先代地車(現 羽曳野市樫山地車)と菱木奥の先代地車(現 河内長野市三日市北部地車)の製作年と製作大工が取り違えられていることを公表させていただきました。(関係町の方々の中にも驚かれた方がおられたのでは・・・・。)
これまで、馬場の先代地車(現 羽曳野市樫山地車)が、弘化3年(1846年)製作、大工 森市市之助(堺の地車大工か・・・・?)とされていましたが、実は菱木奥の先代地車(現 河内長野市三日市北部地車)であったのです。

菱木奥先代

私「だん馬鹿」が、この事実を知らされてから早いもので十年以上の歳月が経ちます。何を隠そう、その話をしてくれたのが私の「地車の先生」で師匠でもある、地車研究家のY氏なのです。それまで浅学の私は、発行されている地車関係の資料は「絶対正しい!」と思い込んでおり、まさか身近な人から、その経緯などを聞かされ、目から鱗が落ちる思いでした。ただ、それまでにも地車の本などを読んでは、あちらこちらの地車を見に行っていたのですが、実際に見てみて「あれぇ?」と思うことがしばしばありました。唯の「誤記」かと思ったりしていたのですが、「こんなこともあるんやなぁ~」では、あかんやろと思ったのもその頃でした。

間違いは間違いで、誰かが訂正しないことには、いつまで経っても間違ったまま後世に伝わってしまう。それを見た子供らが間違ったまま、また後世に伝えてしまう。それでは、せっかくの『地車文化』も「なんじゃそりゃ・・・・の文化」で終わってしまうような気がします。

今回の事例も、たまたま工務店の作業場に我が師匠が居合わせなければ、ずぅ~と誰も気が付かないまま伝わっていたことでしょう。また、このようなことが我々のまわりに今もなお潜んでいるのかも知れません・・・・。
信濃屋お半だんじり通信
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