井波の工匠が製作しただんじり《後編》

前回からの続き。
昨年の11月26日(土)に抜魂式を終え、その日のうちに《大下工務店》へと搬入された、東大阪市の岸田堂のだんじり。

まだ年内には解体しないとの事で、ひとまず工務店の旧・作業場(現・倉庫)に据え置かれました。

年が明けて1月9日(月祝)、いよいよだんじりを解体する日がやって来ました。
祝日という事もあり、岸田堂からの数名の見学者とともに工務店に到着したワタクシ。
作業場へと足を踏み入れると、まだ岸田堂のだんじりは作業場の片隅に据え置かれており、中央にはまだお見せできない某だんじりが組みかけの状態で置かれておりました。
この日の作業は、それら作業中のだんじりをまずどかし、岸田堂のだんじりを中央に据える作業から始まりました。

て~ことは・・・この日、岸田堂の皆さんに見せるために、わざわざ解体の日に設定したんじゃないですかね~?
だんじりをバラす作業はこのブログでも何度かご紹介してきたかと思いますが、手順みたいなものはだいたい同じです。

大屋根を外し、小屋根を外し、車板、枡組を外し・・・といった手順です。

ひとつ前のブログにも書いた通り、このだんじりは大工仕事も彫物も富山県・井波地方の工匠が手がけただんじりで、その工匠の名前等は明らかではありません。

彫物は、見送り三枚板などを見るにつけ、井波の『欄間彫刻』をそのままだんじりに当てはめた様な感じになっています。

取り外された各部材に目をやると、一つ一つの寸法取りがかなり大ぶりで、部材も肉厚があります。

岸田堂のだんじりを曳行していて、その大きさ以上に感じる『重さ』の秘密は、まさにこの大造りな部材によるものなのでした。
そして、いよいよこのだんじりに隠された『謎』が明らかになる時がやって来ます。
取り外した大屋根の屋根板をめくり、内部の骨木を露出させると、その内部の骨木が1本折れてて、ちょうどその部分に、製作者の銘が記されてありました。

この写真にある『ヤマト屋 竹本賢三』という人物は岸田堂の人で、このだんじりの施主にあたります。
そしてその下の
『大工 富山県高岡市戸出 上野伸』
という人物が大工棟梁と看てよいでしょう。
高岡市という住所から、厳密には井波の工匠ではないですね。
まぁ井波は彫刻の里ですから、大工棟梁は別の土地と考える方が自然でしょうね。
そして彫師は
『富山県井波町西町 柳沢英一
富山県庄川町金屋 大丸敏夫』
これが、このだんじりの永年の謎、大工と彫師の氏名でした。

実を言うと、平成3年の入魂式の日、土砂降りの雨降りだったあの日、テントの中に据え置かれただんじりの、前の肩背棒のところに、この工匠の名前の書かれた紙が貼り付けてあったのですが、当時まだ10代だったワタクシがそんな名前を覚えているはずもなく、むしろちゃんと読んだ記憶もありません。
『あー、富山県や、井波の彫師や…』
ぐらいにしか思ってませんでしたからね。

25年の時を経て、ようやくこのだんじりの製作者の氏名が、明らかになりました。

さて、ほぼ半日で解体されただんじりは、この後しばらく姿を現さなくなります。
再度使用する部材は洗いがかけられ、交換する部材はまた新たに木造りがされます。
また今回、見送り三枚板を彫り替える事が明らかとなっており、その彫物は《辰巳工芸》の手に委ねられます。

完成は5月の予定で、4月恒例の『布施地車パレード』は、今年は不参加という事です。
では、完成する日を楽しみに待ちましょう。
今回はここまで・・・
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