春が来た!…楠公生誕地に『曳き唄』が響く!《其之参》

前々回から続けて、『千早赤阪60周年(略称)』の話題をお届けしております。

後々も色んなネタが控えておりますので、今回で畳み掛けましょう!
前回は会場となる『くすのきホール』駐車場に6台のだんじりが集合するまでをお届けしましたね。
今回はセレモニー後の各町『唄い廻し』、すなわち『でんでん』というパフォーマンスの写真とともに、1台1台のだんじりを簡単にご紹介してゆこうと思います。

◎水分
建水分神社の宮本であり、毎年秋祭に於ける『比叡の前(へのま)』への宮入り1番を務める町。

製作年代は不詳ですが、まぁおそらく幕末から明治期に製作されたものでしょう。
大工は『石川型』だんじりを数多く製作した《新堂大工組》の手によるものとされ、彫師も《彫又》一門とされています。

『石川型』だんじりの見本とも言える均整のとれた姿見と、屋根廻りを埋め尽くす彫物は目を魅きます。
◎森屋
幕末、安政2年(1855年)の製作ではないかと目されているだんじりで、大工は南加納の梅吉とされています。
《新堂大工組》の職人かも知れません。

彫師は《相野》一門とされていますが、大屋根正面に据えられた鬼板は、 木下舜次郎一番弟子・《木彫 筒井》筒井領燁 師の晩年の作品です。

『石川型』最大クラスの大きさを誇るだんじりだと言われています。
◎川野邊

昨年、文化庁の地域活性化事業の助成金を活用して《吉為工務店》にて修復されただんじりで、その際の調査で明治20年頃の製作ではないかという看立てがなされました。

元は河南町の河内 (こうち)が所有していたものを明治末期に川野邊が購入したと言われています。
◎ニ河原辺

千早赤阪へ足を運んだら必ずや見ておきたい1台です。

6台の中でもひときわ異彩を放つ『五枚板式段差勾欄堺型』と呼ばれる形式のだんじりで、彫師・相野徳兵衛、相野伊兵衛、相野得兵衛ら《相野》一門の見事な彫物が見る者を魅きつけて離しません。

幕末から明治期にかけて製作されたものと目されていますが、大工は不詳です。
堺のだんじり大工のてによるものか。

地元の方々もこのだんじりの貴重さを十分理解しており、地域一丸となってこの『名地車』の保存に尽力されています。
◎桐山
製作年代、大工とも不詳のだんじりですが、一目見てその特徴に目が行きます。」

大屋根正面に取り付くは獅噛みでも板式の鬼板でもなく、龍の顔。
そして箱棟が龍の胴体となっており、主後が尻尾。すなわち屋根の上に龍が横たわっている構図になっていて、彫師は《相野》一門とされています。

同じような形式のだんじりはこの南河内に河南町の一須賀、富田林市の廿山があります。
◎中津原
だんじり本体については、この日の1週間前に見学させて頂いたことをブログにUPしていますので、中津原の紹介ページから過去のブログを読み漁って頂ければ幸い。

中津原のパフォーマンスは、『唄い廻し(でんでん)』ではなく、村に古くから伝わる獅子舞を披露していました。
こうして1台1台のだんじりが会場にてパフォーマンスを行なった後、役場前までをパレードするため12時半より会場を出発。

超生寺の前から国道309号線を西へ向かい、森屋交差点を左折して役場前へと向かいます。
ワタクシ自身は他の町の入魂式を取材してからこちらに駆けつけたので、ちょうどこのパレードの道中だけを拝見しました。
中津原のだんじりを先頭に、各町が思い思いの『曳き唄』を響かせながら、楠木正成ゆかりの地を連なって曳くさまは、なかなか祭礼本番でもお目にかかれない光景でしょうか?

それは、村制60年の時をはるかに超越し、南北朝時代から600年の時を経た千早赤阪の『今現在』を書き記すものでした。

6台のだんじりのパレードは午後2時頃、役場前にて解散となり、また各町それぞれの道を曳行しながら、帰路につきました。
なお、片道6kmはあろうかという道程を曳いて来た中津原ですが、帰り道は登り勾配なので、トラックにて搬送との事でした。

またいつか、この6台のだんじりが一同に会する機会があることを願いながら、楠木正成ゆかりの地、千早赤阪から失礼します。
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