こんな地車もあるんですよぉ~!
毎度、だん馬鹿っす・・・・。「正月やぁ~、正月やぁ~!」と騒いでいたら、今月ももうお終い。明日からは2月です・・・・。このペースでいくと、今年も「あっ」という間に終わっちゃうんでしょうかねぇ~?
さて、今日の『だんじり通信』は、ちょっとマニアックに、岸和田市の植山工務店で修理され、昨年4月29日(祝)に入魂式がおこなわれた、奈良県葛城市長尾の地車を紹介しましょう。
まずは、画像をご覧下さい・・・・。

「えっ、これがだんじり!」と驚かれた方がおられるかも知れませんが、れっきとした地車なんですよぉ~。お宮さんの社みたいでしょ・・・・。だから、地車研究家の間では『社殿型』と分類されています。
社殿型地車は、近畿一円でもそんなに多くは存在していません。私の知る限りでも、その数は十台。その多くが大阪府豊能郡能勢町に集中しています。同じ奈良県下には、北葛城郡広陵町弁財天にもう一台あるだけ。しかし、奈良県下には社殿型の屋根の施された太鼓台が数多く存在しており、これら太鼓台の様式がこの地車に取り入れられたのかも知れません・・・・?
町の方のお話しでは、この社殿型地車は、「百年ほど前(明治末期から大正初期)に、大阪(河内方面)から購入した」と話しておられました。社殿型屋根の太鼓台を保有している奈良県下の町の方からも、「大阪柏原方面より購入した太鼓台」と以前に聞いたこともあり、また、同様の太鼓台が大阪府柏原市雁多尾畑(かりんどおばた)にも存在。
奈良県香芝市下田の地車の屋根の内部には「志紀郡 清介、儀助」などの大工の墨書きが発見されており、現在の大阪府八尾・柏原市近郊に地車や太鼓台を製作していた大工達が存在していた事が伺い知れます。
今回の修理では、製作年・製作大工が書かれた「棟札」や墨書きは発見されませんでしたが、おそらく、明治期に大阪府八尾・柏原近郊の大工の手により製作された地車ではないかと、推測されます(私の少々乱暴な推論ですが・・・・)。
長尾の地車の一番の特徴が、「社殿型の屋根」なのですが、もう一つの特徴が、十本の柱。うち8本の通し柱が一つの社殿型の屋根を支え、残りの2本が舞台の様に広く張り出した「縁」を支えています。

この細工は、同じ社殿型屋根の能勢方面や広陵町弁財天の地車とは違い、長尾の地車のみに見られるもので、近畿圏の存在する約900台の地車の中でも、私の知る限り「これ一台のみ・・・・!」。ほんま、スペシャルな地車ですわ・・・・!
さて、彫物は、そのノミ跡などから、大阪本町に居を構え、江戸末期から明治期に活躍した彫物師、《小松》一門の作と推測できます。後部の旗差しに彫られた「鷲と猿」は、九代目 小松源助(岡村平次郞)の作と思えるのだが、これまた、銘などは発見されませんでした・・・・。

私がこの地車に初めて見たのが、今から10年ほど前・・・・。奈良方面の地車を見に出かけ、帰りがけに神社付近のガレージの奥に野ざらしで置かれていたのが、この地車との初めての出会い・・・・。「ぼろぼろでペンキだらけやけど、ええ彫りもんの入った、味のある地車やなぁ~」が第一印象でした。生まれて初めて見た、社殿型の地車に驚いたのもその時でした・・・・。
今回の修理では、本体をほぼ原型通りに新調復元。彫物は洗いがかけられ、欠損部の掛け接ぎ、彩色がおこなわれ、ほとんど抜け落ちていた目玉も全て入れられました。残念ながら、見送りの後正面に描かれていた絵(ほとんど消えかけてましたが・・・・)までは復元されませんでしたが、祭礼時にその部分に掛けられる「見送り額」は同じ図柄(牡丹に唐獅子)の物が新調されました。
入魂式当日は、長尾神社の横で、植山工務店の大工さん達により社殿型の屋根が取り付けられ、その後、神社脇の新築された地車小屋まで200メートルほどを移動。真新しい地車小屋で、神事がおこなわれました。
残念ながら、10月におこなわれた「秋祭り」には行くことが出来ませんでしたが、今年は足を運んでみようかなと思っています・・・・。
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