5ヶ月前の記憶、秋風に乗せて・・・《前編》

いよいよ明日は『岸和田だんじり祭』の第2回目の試験曳き、そして16日(土)からは待望の祭礼本番を迎えます!

とうとう来てしまいましたね〜、1年で最も熱く燃える3日間が、いよいよ開幕です。
前回のブログでもちょっとお知らせした通り、(株)ケイ・オプティコムによります『eo光サービス』のスペシャルコンテンツとして、無料配信でご覧いただける期間限定『だんじりサイト』がオープンしました!
その名も・・・!
『eo関西だんじり 秋祭礼』
であります!

こちらのブログではリンクを貼れないのですが、一応、URLだけはお知らせします。
http://eonet.jp/danjiri/
コピペして検索してみて下さい。
検索ワードを『関西だんじり 秋祭礼』で検索してもヒットしないので、このURLが大事になりますよ!
あと当サイトの公式Twitter『だんじり茶屋』のトップにも固定ツイートで表示していますので、ぜひぜひアクセスしてみて下さい!
前にもお話した通り、『岸和田だんじり祭』のライヴ中継と、その後は各地の祭礼の動画配信をお届けしてゆきます。

当サイトともども、『eo関西だんじり 秋祭礼』も、どうぞよろしくお願い致します。
さて、ブログ本題は8月最後のブログでちょいと触れた、宝塚市のいくつかのだんじりの話題。
これについて掘り下げていきたいと思います。
まずは売布神社の米谷西、米谷東のだんじりから見ていきますよ。

今から時を遡ること5ヶ月ほど。
4月23日(日)は朝から岸和田市の中北町をはじめとする各地の入魂式や祝賀曳行が目白押しで、『春のだんじりピークデー』を迎えておりました。
そんな中、ここ宝塚市は『長尾地区』と呼ばれる地域では、いくつかのだんじり小屋が開かれ、お互いがお互いの町へ訪問しあうという企画が行われておりました。
まずワタクシが最初に訪れたのがこちら、売布神社の境内にある、米谷のだんじり小屋。
米谷西と米谷東の2台のだんじりが並べて置かれてある小屋でございます。

小屋の外へ出されてあったのが、米谷西のだんじり。
『宝塚型』と呼ばれる形式のだんじりですが、どこがどう?・・・と言われると、組み方や構造に於いては一般的な『上地車』と大きな違いはありません。

『宝塚型』として分類するための『共通点』として挙げて行きたいのは、まず屋根の形状が、一般的な『上地車』ほど曲線的ではなく、棟の部分の『むくり』も大きくなく、どちらかと言えば『岸和田型(下地車)』のような形状の屋根に、この米谷西のだんじりの場合は獅噛みではなく『飾目』と呼ばれる形式の鬼板が取り付けられています。

もちろん『獅噛み』の場合もあり。
大屋根と小屋根の段差は小さく、見送りと土呂幕も『幕式』であり、特に見送り部分はこのように竹を曲げてカゴのような形状を作り、そこに豪華な刺繍の施された幕を張り巡らします。

地元の人たちは、だんじりの彫物よりも、どちらかと言えばこの幕を自慢のタネにしており、前にも同じような企画が開催されていた時に、別のだんじりにお邪魔させて頂いた時も、
『ごめんなぁ、せっかく見に来てもろたのに、今日は幕を飾ってないねん!』
と言われました。
『いえいえ!ぜんぜんお構いなく。だんじり本体を拝見できるだけで有り難いです。』
て言うたら
『そうなん?…いやぁ〜幕も見てもらいたかったんやけど・・・』
みたいなやりとりをさせて頂いた記憶があるのですが、それぐらい、こちらの地域では見送り幕が豪華で自慢のタネなんですね。

しかし写真をご覧いただけば分かる通り、彫物もなかなか見事な作品なんです。

こちら、米谷西のだんじりは幕末・安政年間に製作されたという説があるものの正確な製作年代は定かではなく、大工も地元の大工と言われているのみです。

それは、隣接する小浜や山本にも同じ事が言え、似通った形式のだんじりが群生するにも関わらず、製作大工は不詳のだんじりが多く、また製作年代は幕末から明治にかけてとされるものが多く、そうした事から推察するに、つまりは幕末から明治にかけて、地元において活躍した大工によって製作されたものが、この『宝塚型』と呼ばれる共通した形状のだんじりが生み出されたのではないでしょうか?

ちなみに、隣に置かれている米谷東のだんじりは、製作大工が《浅野與助》とされており、またお隣の川面のだんじりは、川面西が《栗田庄兵衛》、川面南が《大中》坂本伊之助となっており、それらの大工もまた、宝塚で活躍していた大工と思われる事から、ここ米谷西のだんじりも、そうした流れを汲む大工の手によるものではないかと思われるのです。
おっと!
エライ長くなってしまいましたね!
ではこの続きは次回に!・・・
<<前の記事 | 次の記事>> |