これがほんまの『板勾欄出人形式堺型』・・・・!
毎度~、だん馬鹿です。
いやいや、ここ暫く初夏を思わせるような陽気・・・・。「花見にいかなぁ~」と思っていたら、桜も見事に散ってしまい、もはや「葉桜」って感じ・・・・。今年もまともに花見にも行けなかった《だん馬鹿さん》なのらぁ~。
例年なら3月・4月ともなれば入魂式の一つや二つ行われるのですが、今年はまだ一つもありません。4月26日には、堺市向ヶ丘町、太子町後屋の入魂式が行われる予定ですが、地車ファンの皆さんもう暫くの辛抱ですよぉ~。
しかし地車大工とて仕事が無いわけでもなく、入魂式が行われなくとも、修理が終われば町内へ地車を搬入。入れ替わりで地車の引き取りが行われたりと、どの工務店もあわただしい日々を送られてるようです。そんな中、昨日4月12日(日)には大阪市平野区加美北東の地車が、岸和田市の板谷工務店での修理を終え、町内に搬入されました。
この地車は江戸末期から明治初期に堺の地車大工の手により製作され、堺市百舌鳥赤畑町にて曳行されていまいたが、百舌鳥八幡神社氏地内の布団太鼓への転換にともない、大正末期から昭和初期に和泉市伯太の業者を通じ、和泉市富秋町が購入。平成11年まで同町にて曳行された後、加美北東へ・・・・。彫物も堺《彫又》の作とあって、まさに『made in Sakai』と言うにふさわしい地車なのです。

さて、今日まで多くの地車研究者が地車の「型別け」をおこなっておられますが、まるっきり形態の違う『堺型』と『住吉型』が混同されてあちらこちらで流布しているのが現状・・・・。私的には、堺で製作された地車は『堺型』で《住吉大佐》・《住吉大源》など住吉(現・大阪市住吉区近辺)の大工により製作されたものを『住吉型』とするのが一番解りやすいと思うのですが・・・・。
『堺型』地車には、6本の通し柱の他に縁までの2本の柱が施され、腰回りだけを見れば計8本の柱で細工。したがって、左右の土呂幕は前・中・後と三分割されているのが最大の特徴。『住吉型』は、六本の通し柱で細工されています。
両者とも旗差し・旗台が取り付けられ、勾欄部分は「擬宝珠勾欄」と「板勾欄(内側に擬宝珠勾欄を施した二重勾欄)」の二つのタイプが存在。

この加美北東の地車こそが『堺型』地車の中でも数少ない、勾欄部分に出人形が施された「板勾欄」と「擬宝珠勾欄」が二重に付く『板勾欄出人形式堺型』地車。くれぐれも見送りにも出人形が施された『板勾欄出人形式住吉型』と混同なさいませんように・・・・。ちなみに、金田村(現・堺市金岡町)の大工《河村新吾》の製作した地車(松原市更池)は、様式からすれば後者の方にあたります。
そんなこんなで、今や堺市内でもめっきり台数の少なくなった『堺型』地車。その数も4台を残すのみ。堺から『made in Sakai』の地車が無くならないことを願いつつ、加美北東の入魂式には是非とも訪れてみようと思う《だん馬鹿》なのであります・・・・。
なお、入魂式の日程は情報未入手・・・・。わかり次第、お知らせします・・・・。
写真を提供していただきました《地車祭礼連絡協議会》のP氏に感謝!!
★おまけ
本日は、『各町の地車』の姿写真の追加と差し替えをおこなっております。以下の通りでぇ~す!
[新規追加]
◆貝塚市南近義地区 堤 (化粧)
◆貝塚市麻生郷地区 半田(化粧)
◆貝塚市木島・西葛城地区 馬場(化粧)
◆岸和田市旧市 紙屋町(裸)
◆岸和田市旧市 沼町(化粧)
◆岸和田市南掃守地区 西之内町(裸)
◆岸和田市八木地区 中井町(化粧)
◆泉大津市濱八町 上之町(裸)
◆和泉市郷荘地区 観音寺町(化粧)
[差し替え]
◇田尻町 嘉祥寺(化粧)
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