茶屋のだんぢり漫遊録

目次

この爺さん、やはりただ者ではない・・・・

毎度、だん馬鹿です!

今日の『だんじり通信』は、緊急告知から・・・・。

予告!
来る11月1日(日)、地車の新調を来年に控え、岸和田市旧市地区 下野町の地車の昇魂式・お別れ曳行がおこなわれます。
当サイト『だんじり』では、その模様をダイジェスト・ムービーで即日配信予定!!

おともだちにも教えてあげてネ!!

さて、今日の『だん通』は前回に引き続き、八尾市新家のだんじりについてですが、ここで少々前回のおさらい・・・・。

八尾新家0001

八尾市新家の地車曳行を撮影するため同所を訪れた私 だん馬鹿。
そこで出会ったのが、一人の爺さん。
これまで数度、訪れていたにもかかわらず、この地車に関する謎の数々。
だん馬鹿の直感では、「この爺さん、なんか知ってる」。
はたして、その謎は解けたのか・・・・?

この爺さんが土呂幕の方を指さして言うには、「この土呂幕はあかん、○○○の仏壇屋が彫ったんや。地車のんとは違う、そやからあかん。ほかのんと比べたら一目瞭然や・・・・」。
「元々、買うてきた時は、幕張って曳いてたんやけど、八尾が市ぃ~になった時、八尾まで曳いて行くのにかっこ悪いから、入れ足したんや」。「でも○○○の仏壇屋や・・・・」。

八尾新家0002

これで謎の一つが解けた。
土呂幕の部材の新しさと土呂幕の上部の大きなすき間。納まりの悪さは、これが原因だったのである。
八尾が市制を施行したのが、昭和23年4月1日。中河内郡八尾町・龍華町・久宝寺村・西郡村・大正村の2町3村が合併し八尾市となったのだが、西郡村の一村である新家の地車もこれを記念して地車を曳き出したようである。
さて、○○○の仏壇屋は現在でも大阪市の某所で看板を上げ営業中。
おそらく、この土呂幕を細工したのはその仏壇屋の先祖。地車彫刻にもその名を残す○○○○。勘のいい方なら解るはず・・・・。

次に爺さん、「この地車はワシが生まれた時にうちのオヤジらが大阪から買うてきたんや。清水町の旦那衆が遊びで曳くのにこしらえたやつやて聞いてる。ばらしてほりあげたぁ~ったん買うてきて組み立てたんや・・・・」。

またまた、謎が解けた。
この爺さん、聞いたところ、今年で81歳の昭和3年生まれ。
その年に、大阪のどこかで解体して置いてあったのを購入したらしい。
清水町はいったいどこなのか・・・・?
おそらく、大阪市 旧南区清水町。現在の大阪市中央区東心斎橋であろう。
江戸の昔から、大店(おおだな)が集まっていた界隈。粋な旦那衆が贅を尽くし拵え、小僧さん達に曳かせていたのかも知れない・・・・?

ちなみにこの地車、形態や彫物などから、現在も吹田市で曳行されている『大阪型』の地車と酷似しており、見送りの三枚板彫刻も「火燈窓」風に細工されていることから、江戸末期に製作された古いタイプの『大阪型』地車と考えられています。

八尾新家0003

そして、またまた爺さんが申すには、「この地車買うてくるまで長い間、地車無かったんや。大正時分に、堺の大鳥神社のどこかの氏子の村に売ったらしいんや。えっ、あんた、そこの近所から見に来たんか。どこの村か解らんけどな・・・・」。

以外や以外、爺さん何やかんやとすごい事を話してくれる。

八尾新家0004

ちなみに、この爺さん、現在、地車小屋が建てられている土地の元持主で、この土地も村に寄付したのだとか(かなり大きな御屋敷にお住まいであった・・・・ビックリぎょ)。
「一緒に鳴りもんしてた同級生もいてへんようになったし・・・・。俺は、鉦専門やったんや」と昔を懐かしむようにおっしゃったのが印象的でした。
曳行の途中、中年のおじさん達から地車に乗るように促され、元気一杯に鉦をたたいておられました。

機会があれば、またお会いしてだんじり談義に華を咲かせてみたいものです。それまで、お元気で・・・・。

あっ、もう一つ。この地車、平成5年に八尾市の《彫忠》で大修理したそうです。
信濃屋お半だんじり通信
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