間違いは正しなはれ・・・・其の二
週始の月曜日、皆さんいかがお過ごしですか

毎度、だん馬鹿ッス

先週末からワイドショーでは、民主党 小沢一郎 幹事長の政治資金問題で持ちっきり。4億円の虚偽記載で逮捕者も出る始末。
この不況の風が吹きすさむ昨今に4億円とは・・・・。貧乏人の私たちには、縁のない金額。何はともあれ、4億円もの大金を動かせること自体、私にとってはうらやまいい限りですわぁ~。
さて、今日の『だん通』は、就職難が叫ばれる世知辛い世の中で、ちょっとした朗報から・・・・(まぁ~、だんじりとは関係ないのですが)。
当サイト『だんじり』を配信する弊社《モバイルテレビジョン 株式会社》の関連会社には、テレビ番組を企画・制作している《株式会社 ブリッジ》という会社があります。
有名なところでは、よみうりテレビの『大阪ほんわかテレビ』や『情報ライブ ミヤネ屋』、毎日放送の『知っとこ!』や『ちちんぷいぷい』などなど、在阪テレビ局を中心に数多くの番組を製作しているんです。
その《株式会社 ブリッジ》が、新たな人材を大募集!!
アシスタントディレクター(AD)を募集しているんです。
詳しくは、パソコンで『株式会社ブリッジ 番組』で検索するか、直接「http://www.bridge-inc.com/」にアクセス!
だんじり祭の撮影に出向くとビデオ撮影している人を多く見かけますが、「ゆくゆくはテレビ業界で活躍したい」なんていう夢を持っている方も多いのでは。
あなたの夢を叶える絶好のチャンス! 一度、応募してみてはいかがでしょうか・・・・。
求人情報はこれくらいにして、今日の『だん通』はここからが本編。
前回に引き続き、大阪市東成区 中道の地車についてです。
前回の『だん通』では、本サイトでの中道の地車のデーターに間違いがあることから、「彫物師はいったい誰やねん?」てなことを書きました。
その後、調べていく上で発覚したのが、製作年について。
当サイトでは、製作年は大正13年として紹介していますが、大正6年という説もあることが判明。
八阪神社の現社殿造営にあたった名古屋の宮大工により、時を同じくして地車も製作したと云われていることから、社殿の起工は大正11年、竣工は大正13年6月5日。したがって、大正13年の新調で間違いないと思われます。
ちなみに、大正6年には神社の玉垣を新設し、鳥居を現在の場所に移設したようです(玉垣や鳥居は石屋の仕事ですよねぇ~)。
次に、彫物師について・・・・。
当サイトでは、彫物師は辻田友次郎として紹介していました。

これが辻田友次郎の作
しかし、辻田友次郎は明治41年1月11日没。この地車に、ノミを入れるにも、あの世からとはいきません。
「ほなら、誰・・・?」となるのですが、獅噛みは《辻田》の手ではないように思えます(浅学の為に、わかりましぇ~ん)。
見送りの三枚板は、辻田友次郎の作風と似通っていて、年代から友次郎の子息、増治郎や松治郎らではないかと思われます。


これが中道の三枚板
これまでにも度々この地車を見ていたのですが、あらためてこの三枚板をじっくり見て、私の頭の中を困惑させてくれたのも、そのノミ跡。
《辻田》の馬や人物が、泉州地域の下地車(岸和田型)でよく見受けられる彫物師の作風と余りにも似通っているのです。
それも、明治から昭和の初めにかけて活躍した彫物師。この地車の製作年代から考えると、少々見慣れた人なら誰だって混同するかも・・・・?

これが玉井の彫物
さて、その名彫師は、慶応2年(1866)岸和田市浜町の大工棟梁《玉傳》こと 玉屋信吉の子として生を受けた、幼名 熊吉。そう、玉井行陽、その人なのです。
和泉彫の流を汲む《高松》一門の一人。二代目高松彦四郎(安田卯ノ丸)の弟子。地車大工 絹屋(絹井)嘉七の甥にもあたる。
明治・大正・昭和に渡り、地車だけにとどまらず、神社仏閣、太鼓台などにも名を残す。
まぁ~、百聞は一見にしかず、辻田友次郎をはじめ《辻田》一門の作といわれる地車の多くには、「玉井の彫りもん!?」と言いたくなるような彫物が入っているはず。
ひょっとすれば、辻田も玉井もどこかでつながっていたかも知れないが、「《辻田》に和泉彫を見た」ってな感じである。
よって、当サイト「各町の地車」の中道のデータは、以下のように修正いたしました。
製作年:大正13年
製作大工:名古屋の宮大工
彫師物:《辻田》一門
ちなみに、この地車は平成11年に岸和田市の《池内工務店》池内幸一 棟梁の手により大修理がおこなわれ、この時に土呂幕などの彫物を新調入れ替え。
改修時の彫物は、《木下彫刻工芸》木下賢治 師の作。
改修以前の土呂幕は、「格子」であった。
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