春木川の第二弾!だんじり戎・・・・
毎度、だん馬鹿ッス

桜のたよりも聞かれ始めたと思いきや、早いところではもう満開。
しかし、ここしばらくは少々肌寒いほど・・・・。まさに「花冷え」ってな感じの今日この頃。
夜桜見物とほろ酔い加減で、風邪などひかぬ様にご注意のほどを・・・・!
今月もあと数日。朝から、「やたら子供やおにいちゃん・おね~ちゃんを見かけるなぁ~」と思っていたら、世間は春休みであったことに気が付きました。
もうひと月余りで、神戸は「だんじり祭」。神戸の方々は準備に大忙しなことでしょう。
昨日は、東灘区本山地区 田辺の地車が修理を終え、4月3日(土)の入魂式を前に町内へ搬入。
また、住吉地区 山田では校区のイベントで山田の地車が本番さながらに曳行されました。
先週21日(日)にも東灘区御影市場の90周年イベントで、御影東之町と弓場の2台の地車が曳行されるなど、5月の本祭りを前に「祭モードに突入!」ってな感じ。
ゴールデンウィークが待ち遠しい限りです。
さて今日の「だんじり通信」は、前回の「だん通」でも少し触れた、『和泉市春木川町のだんじり戎』について書いてみようと思います。

『だんじり戎』なだけに、来年1月の『十日えびす』までネタを温存しておこうかとも考えたのですが、ユーザーの方からの「早く書いてね・・・」の声を無視する訳にもいかず、「ほたら書いちゃろけぇ~!」ってなもんで、さっそくいきまっさぁ~!!
春木川町の小高い山の中腹、地蔵寺と氏神様の八雲神社が奉られている同じ境内に、その『だんじり戎』は鎮座しています。

昭和30年代に曳行休止。先日訪れた際、67才の方から「高校1年の時まで曳いていたが、翌年は曳いていない」との証言を頂いたことから、昭和33・34年頃に曳行休止したことが判明。その後、地車を社殿として再利用し、恵美須様がお奉りされています。
この地車は、大正初期に和泉市伯太町の地車を扱っていた業者から購入したと云われているもの。
江戸末期から明治初期に堺の地車大工の手により製作されたものと考察できます。
彫物は、そのノミ跡から、堺の《彫又》一門の作と考えられます。
地車の形態では、腰回りに8本の柱を立て、そのうち6本が通し柱で細工されている『堺型』に分類されます。
昭和中期まで、このタイプの地車が多く曳行されていた堺市やその周辺部では『箱だんじり』と呼んばれていたもの。
しかし、この地車は、前部を擬宝珠勾欄、後部を板勾欄で細工したもので、前部と後部で「縁」や勾欄が段違い、「段差勾欄」になっていることから、現存する『堺型』地車でも非常に数少ないタイプ。

私の知る限りでは、奈良県下に数台あるだけと思われます。
柱の本数から、土呂幕部分は片側に3面、前後に2面の計8面の彫物が施されていたはずなのですが、社殿化する際に8本柱を6本に減らし、前部を短く切り詰めているため、左右4面と後部は現存。縁の下をのぞき込み内部を見ると、扉状の土呂幕「花戸口」も残されているようです。

社殿の前部に階段が付け足されているため、残念ながら見ることはできませんが・・・・。
小屋根は、狭い路地を通る際に家の軒などを交わすため、屋根の軒先が折り上がる様に細工された「折屋根式」。

修理の際に固定されたり、改修の時に造り替えられたりしているため、現存する堺型や住吉型でも数少なくなりました・・・・。
彫物も欠損箇所が多く、附木の顔なども外れているのが残念でなりませんが、作風は堺《彫又》の作で間違いなし。
正面の車板の巨大な龍は圧倒されんばかりの大迫力。

見送り後正面の『大貴己命(おおなむちのみこと)、大鷲退治」は、「これぞ彫又!」ってな感じ。

また、後部板勾欄の『冨士の巻狩り 仁田四郎、猪退治』も迫力満点!

当日は、『やしょく』がおこなわれるとあって、多くの町内の方が集まっていたこともあり、ご無理をお願いし柵の内部に入れていただき、写真撮影させていただきました。
これまで、幾度となく見学に訪れてはいるものの、行けば何か新たな発見のある『春木川のだんじり戎』。
最後に、以前訪れた際に、通りかかったご婦人に見せていただいた昭和19年祭礼時の写真を御披露して、今日の『だんじり通信』はおしまい・・・・。

お世話になりました、春木川町の皆々様、厚く御礼申し上げます。
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