貝塚市橋本新調地車レポ-その弐
毎度、だん馬鹿です

今日は、8月15日。お盆休みのひと時、ユーザーの皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
帰省先の故郷でこの「だん通」をご覧になっている方もおられるのでは・・・・?
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故郷のご家族・親戚・友人・知人の方々にも見せてあげてくださいねぇ~!
そう、貴方が『だんじり文化』の伝道者となるのです・・・・(なんのこっちゃ)。
さて今日の「だん通」は、前回に引き続き、貝塚市橋本の新調地車レポ その弐をお届けします。
前回は、大屋根正面に彫られた橋本ゆかりの題材「弘法大師ゆかりの清水」についてお伝えしました。
そして、いよいよ今回から主な彫物の紹介へと突入していくのです・・・・。
橋本の新調地車の彫物構成は少々変わっており、正面の大屋根廻りを氏神である南近義神社の祭神「弥都波能売神」と「弘法大師ゆかりの清水」の町内関連図柄でまとめ、正面の腰回りは「太平記」、大屋根下側面の右側を「源義経」関連、左側を徳川名代の武将「本多忠勝」関連図柄でまとめ上げています。
大屋根車板は、昨年9月22日に「合祀100周年奉祝祭」がおこなわれた南近義神社の主祭神「弥都波能売神」が彫られ、小屋虹梁の龍の彫物と相まって女神が龍の背中に乗っているように見えます。

正面の腰回りは、太平記からの題材。左右一対の松良は、楠木正成の奇策が効を奏した「千早城の合戦」。
縁葛には、後醍醐天皇が楠木正成との対面を夢で見た場面、大連子には正成初陣の場面、小連子には有名な「楠公子別れ」の名場面が刻まれています。

そして土呂幕には、町内ゆかりの武将 橋本八郎正員の姿が・・・・。
この橋本正員は、楠木正成非業の死を遂げた湊川の合戦において、最後まで正成に付き従い殉死した武将の一人。

斧を振り上げ、敵将に挑む勇敢な姿が、山本仲伸 師の手により克明に再現されています。
ちなみに「相手方の武将は誰であるのか?」、それを山本 師に聞こう聞こうと思いながら、今日まで聞くのを忘れている私 だん馬鹿なのです・・・・(トホホ)。
大屋根下右側面は、「源義経」関連の題材で統一。
大屋根右の枡合には「鞍馬山修行の場」、縁葛は義経と静御前の吉野山での別れの場面、大連子は超有名な「義経八艘跳び」の名場面。

小連子はこれまた超有名な「安宅の関、勧進帳」。

奥州へ逃れるために通らねばならない安宅の関での、弁慶一世一代の大芝居。
土呂幕には、弟 義経を亡き者にしようと頼朝が命を下した「堀川の夜討ち」。
兄弟の確執がもたらした、話しのもの悲しさが我々日本人の心を打つのでしょうか・・・・。
大屋根下左側面には、彼の徳川の名将「本多平八郎忠勝」のまつわる話しの数々。
大屋根左枡合は、忠勝が愛用した鹿角脇立兜の由来。

縁葛は、忠勝が伊勢桑名城主として登城した際の行列の様子。その彫物に刻まれた人の数の多さたるや、地車史上最多。
以前、お弟子さんの古澤知貴くんと数えたところ、47人はいたような・・・・。

中には「福助」も彫られ、師の遊び心もうかがいとれます。
大連子には、忠勝が活躍する「三方原の合戦」、小連子には主君 家康を諫め大啖呵をきる場面。

そして土呂幕には、姉川の合戦で敵将の間柄十郎左衛門を見事討ち負かした忠勝の姿が。

ちなみに「本多忠勝」は、橋本の新調地車の彫物を責任者となり丹誠込めて刻み上げた《木彫山本》山本仲伸 師が「心のよりどころ」とあがめる戦国武将。
師の希望なのか、橋本町会からの師への意向なのかは定かではありませんが、「本多平八郎忠勝」が一面を飾るのは地車史上初の出来事かと・・・・。
そんなこんなで、今日の「だん通」は、大屋根廻りと腰回りを超簡単に御紹介させていただきました。
橋本の新調地車の主な彫物図柄は、「各町の地車」にも掲載していますので、こちらの方もご覧下さい!
>>「各町の地車」を見る
では、次回は小屋根廻り・見送り廻りへと続くのであります・・・・。
ほな今日はこのへんで、バハハァ~イ

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