8年ぶりの対面、高野町富貴の地車・・・・
毎度、だん馬鹿です

堺市内で試験曳きがおこなわれていた9月の下旬、日頃からお付き合いして頂いている『橋本だんじり物語』というHPの管理人、和歌山県橋本市のW氏とお会いする機会がありました(しょっちゅうお会いしてるのですが・・・・)。
お会いするやいなや、「だん馬鹿さん、見学会行きませんかぁ~」との甘いお誘いの言葉。
「どこのんですかぁ~?」との私の問いかけに、「○○です。ちょっと遠いですが・・・・」の返答。
思い起こせば今から8年前、平成14年11月23日、同じ橋本市在住のI氏に御尽力頂き、見に行った思い出深いあの地車・・・・。
それ以来、一度は曳行しているのを見たいと思いながらも、その機会に恵まれず悔しい思いをしている私・・・・。
「あの地車にまた逢える・・・」、その思いが頭の中を駆けめぐり、ふたつ返事で「行きましょ!」と言ってはみたものの、10月中は各地の祭礼撮影でスケジュールは満杯。
「11月ならなんとかなるぞ」と、その場で「11月7日(日)あたりでお願いします」と日取りを決定。
W氏に調整をお願いし、こちらはこちらで、以前からお願いしていた橋本市内某所の見学会を同日段取りすることに。
その某町地車の見学会も快諾を頂き、11月7日に見学会が決定。
日頃から行動を共にすることに多い面々にも連絡を取り、後はお天気次第・・・・。
ちなみに、私が見学会を段取りした所は、雨で中止なんてことは一度もなし。

究極の晴おとこ、いや「だんじりおとこ」と自画自賛(ただの脳天気と人は言いますが・・・・笑)。
当日は、午前中に橋本市内某所の見学会(いずれ機会があれば、だん通でも紹介する所存)。
そして午後からは、○○の地車との再会。
雲の多い、初冬の空模様ではありましたが、幸い雨も降らず、見学会も決行。8年ぶりの再会となりました。
さてその地車は、橋本市内から車で40分。霊山高野山の東方に位置する、和歌山県内でも秋の味覚「松茸」の産地としても有名な高野町富貴の地車。
地元役員の方により地車小屋の鍵が開けられ、午後1時から見学開始。
参加者一同で、地車に掛けられていたシートを外し、地車小屋から表に曳き出し、ゆっくりと見せていただきました。


富貴の地車は、江戸末期から明治初期に製作されたと考えられる『板勾欄出人形式住吉型』地車。
製作大工は不明ではありますが、《住吉大佐》・《住吉大源》、あるいは金田村(現堺市金岡町)の河村新吾などの地車大工の手により製作されたと考察できます。

彫物は、堺の《彫又》一門の手によるもの。

残念ながら、製作より百年以上の歳月を経て幾度となく修理改修がおこなわれ、大屋根下の板勾欄出人形は取り外され擬宝珠勾欄に取り替えられ、坂の多い山里であるが為か「内ゴマ」から「外ゴマ」へと変更。

取り外された勾欄部分の出人形は土呂幕の正面に・・・・
また、彫物の一部も欠損はしているものの、十分に原型をうかがい知ることのできる地車。

見送り後正面にいるはずの漢の高祖が虎に化けた・・・?

漢の高祖は見送り左に出張中・・・・
8年前にこの地を訪れた際、七十歳なかばと思しき区長さんから、「子供の頃にはもうあった」との話を聞き、昭和のはじめ頃にはこの地で曳行されていたことが判明。
後日、河内長野市在住の地車研究の大先輩T氏より、河内長野市寺元(紅葉で有名な観心寺のある所)で曳行されていたことをご教授いただき、購入径路も解明できました。
しかし、いつ頃、富貴にやって来たのかは、今なを解らずじまい。
おそらく、大阪市住吉方面や堺旧市域で曳行されていたもので、後に河内長野市寺元で曳行され、この富貴の地にやって来た地車でしょう・・・・?
この地車の屋根廻りの錺金物には「梅鉢」の紋が施されており、西富貴の丹生神社や現在の河内長野市鳩原の川上神社に合祀されている寺元の寺元神社・八坂神社の祭神に菅原道真の名は見あたらないため、どこかの天神様をお祀りしている神社氏地で曳行されていた地車であると言えるでしょう。

元々は西富貴の地車で、東富貴の「担いだんじり」と共に曳行されていましたが、東富貴の担いだんじり解体後は富貴の地車として曳行。
現在は、10月の第二日曜に地元富貴中学校の生徒たちにより、クラブ活動の資金集めを兼ねて村内を曳行されているとか。

8年前に訪れた時と何ら変わらず、曳行されているこの地車。
いつまでも大切に曳行されますことを願いながら、山郷 富貴の地を後にしました。
御協力頂きました富貴の皆様、見学会にご尽力頂きましたW様、ありがとうございました。
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