極寒の中、熱気ムンムン、片蔵地車見学会・・・・
毎度、だん馬鹿です

ずるっ、ずるずる・・・・、先週中頃から鼻水ダラダラ、頭はボォーッ、背筋はぞぉーっと、どうやら風邪をひいたみたい。
風邪薬は飲んでいるのですが、飲めば睡魔が襲いかかる。
風邪のウイルスが私の身体を蝕んでいく。
悪化の一途をたどらねば良いのだが・・・・。
皆さんも風邪には、十分に御注意のほどを!!
体調不良と格闘しながらも、一週間ぶりの「だん通」の更新。
今日は前回でも予告した通り、1月16日(日)におこなわれた、堺市上神谷地区 片蔵の地車見学会と同町地車について書いてみようと思います。

当日は気温もさほど上がらず、寒風の吹き荒れ、雪舞い散る中にもかかわらず、総勢54名の見学者が集まりました。
堺市内はもとより、泉州各地、大阪市内をはじめ、遠くは宝塚市・高槻市などからも見学に訪れた人も。

寒さにもめげず、これだけ地車中毒症候群にかかっている人が多いのを目のあたりにすると、私も予防に努めなければ・・・・(中には、あんたがウイルスをまき散らしていると言う人もいますが・・・笑)。

片蔵の地車は、平成3年9月に岸和田市の《池内工務店》池内幸一 棟梁の手により新調完成した地車。
彫物は、富山県井波の野原湛水・川原和夫・中山慶春、岸和田の木下賢治 師らが製作にあたられました。
地車の形式は、『堺・住吉型』地車に、化粧枡・立体式見送りなど『岸和田型地車』の様式を組み合わせた『折衷型』と呼ばれる上地車。

泉大津市田中町をはじめ、昭和初期に製作されたこのタイプの地車を継承し、岸和田市内の各地車工務店で製作された上地車のほとんどがこのタイプ(見送り三枚板式もあり)。
特に、昭和50年代から平成の初頭にかけて堺市内で数多く新調され、『岸和田型』への転換が進んだ今日でも、上神谷・鳳・津久野・深井・久世・陶器の各地区で見ることができます。
片蔵の地車もその中の一台で、見送りは「立体形式」、屋根廻りには化粧枡を施し、大屋根は「切妻造り」であるものの小屋根は「二重破風入母屋造り」と、大正期以前の上地車では見ることのできない屋形細工。
そのため、往古の上地車とは違い、屋形細工も絢爛豪華に見え、折衷型地車ファンも多くおられるようです。
彫刻に目を向ければ、上地車の顔とも言える「獅噛み」は、三面ともに井波の名工 川原和夫 師の作。

ひときわ映える大振りな懸魚は、大屋根正面に「雄略天皇、葛城山に大猪を蹴殺す」、小屋根に「野見宿禰、当麻蹴速を蹴殺す」の日本神話からの題材。
一説に、この懸魚は井波の中山慶春 師の力作と言う地車研究者もおられるのですが、その確証は・・・・?(無銘なのが残念)。
枡合・虹梁・見送り廻りは、全て『太平記』からの題材。
正面虹梁の「湊川の決戦」には、この合戦で非業の死を遂げた大楠公 楠木正成の勇姿が彫られています。作者の野原湛水 師の名も記され、この地車への力の入れようがうかがえます。

見送りには、「千早赤坂城之合戦」。

『岸和田型』の立体式見送りとは違い、高い位置にあるため視点が違うのは否めないのですが、史実にはない天守閣が華を添え、ひときわ豪華。

馬乗り・人物などは、野原・中山・木下 師らの作品を組み合わせたもの。

しかし、大脇に関しては少々手が違うようで、中山慶春 師と同様に見送りに立てられた標木に名前を記されていない彫物師の作風と思えるのですが・・・・?
また、縁葛は『忠臣蔵』、土呂幕は『源平合戦』からの題材。
縁葛・土呂幕の左右は、作風から木下賢治 師の手によるもの。しかし、下勾欄が邪魔をして写真では紹介できないのが残念。
さて、平成3年新調されたこの地車も、今年の秋祭りでの曳行が最後。
新調から二十年の歳月が流れ、上神谷地区においても「やりまわし」中心の曳行形態へ・・・・。
その変化に対応すべく、今年の祭礼を最後に現地車に別れを告げ、平成24年には岸和田市大北町より『岸和田型』地車を譲り受け新たなスタートを切る同町。
たまたま、某工務店でお目に掛かった片蔵地車購入委員のKさんに御無理をお願いし、新調から20年目の記念すべき年、また現地車の売却先を探しておられることもあり、そのきっかけになればと、実現したこの見学会。

御尽力いただきました、地車購入委員・青年団・十五人組・若頭をはじめ、片蔵の皆々様、寒い中ありがとうございました。
サイト上ではございますが、厚く御礼申し上げます。
なお、地車の買い替え・購入を検討されている町会・自治会などがございましたら、「上神谷だんじり祭」のホームページでも紹介されていますので、一度ご覧いただければ・・・・。
「上神谷だんじり祭」 http://niwadani.seesaa.net/
ほな、今日の「だん通」はこのへんで・・・・おしまい。
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