特集! 堺市楢葉地車の最終回です・・・・
まいど、だん馬鹿です

先週の金曜日に起こった「東北地方太平洋沖地震」。
被災地の未曾有の惨状が、連日連夜の報道で伝えられています。
多くの尊い命が奪われ、多大な被害をもたらしたこの災害。
自然の恐ろしさを目の当たりにしたように思えます。
被災された皆様、そのご家族の方々には、心よりお見舞い申し上げます。
また、犠牲になられた多くの方々のご冥福と、被災地の早期復興を心からお祈り申し上げます・・・・。
さて、今日の「だん通」は、前回、前々回に引き続き、堺市久世地区 楢葉の地車についての三回目。
今回は、この地車を見に赴いた本来の目的、大連子と土呂幕左右の彫物題材の確認、そしてもうひとつ、田沼源治の彫物が組み込まれているかの調査についての結果報告であります。
まずは、大連子の彫物題材なのですが、はっきり云って、「わかりましぇ~ん!」のお手上げ状態・・・・。
彫物の題材を調べる上で重要なのが、主たる人物が何をどうしているかを見極めること。
そして、他の登場人物や動物、衣装、持ち物、鎧・陣幕などの家紋、背景などを総合的に判断して、この彫物は、誰それのなになにしている場面などと見分けていきます。
もちろん、彫物を彫るにあたり、彫物師さんたちは、下絵を描き作業を進めていくのですから、その元となる錦絵や絵入り本などが存在し、それを見つけ出すことで、題材・登場人物などが決定づけられることもあります。
楢葉地車の大連子の三方には、それぞれ合戦ものの戦闘シーンが刻まれています。

正面には敵を組み押さえている武者の姿、右には突き出された槍の先を掴んでいる武者など、特徴はあるものの、人物を決定づける鎧の家紋なども刻まれておらず、題材を決定づけるには至りませんでした。

探していけば、錦絵や絵入り本などで、良く似た絵に出くわすことがあるかも知れません。
ただ、それ一枚の絵で断定するのも危険極まりなく、全く別の物語でもよく似た絵に遭遇する可能性も捨てきれません。
分からない図柄・登場人物を無理やりこじつける必要もなく、分からないものは分からないままにしておくのも、地車彫刻を研究する上でも大切なのかも知れません。
次に、土呂幕の図柄なのですが、正面には有名な「川中島合戦」の上杉謙信と武田信玄の姿が、刻み込まれています。

白頭巾で馬に乗り攻め入る上杉謙信を、軍配団扇片手にさっそうと身構える武田信玄。地車彫刻のみならず、誰もが知っている有名なお話し。
そして、目的の左右の土呂幕・・・・。
左右ともに、馬上の槍を持った武者の姿が彫られています。しかし人物などを決定づける鎧や陣幕の紋も見当たりません。
このような場合、縁葛・大連子・小連子、それぞれ三方の図柄の関連性を見て、判断することがあります。
例えば、縁葛の三方は「富士の巻狩り」、大連子は三方「太閤記」で、となれば土呂幕も「○○合戦」で三方をまとめている場合がよくあります。
楢葉の場合は、正面が「川中島合戦」の信玄と謙信。ならば、左右も「川中島合戦」関連の図柄である可能性は、大・・・・。

そうやって見ていくと、土呂幕の左側の馬上の武者は、隻眼(片目)・・・・。
ここで「ピン」とくる人は、なかなかのつわもの。
川中島合戦に登場する、隻眼の武者と言えば、武田信玄の家来のひとり、軍師 山本勘助、その人・・・・。

家紋などは刻まれてはいないものの、隻眼こそが決め手となります。
土呂幕右側も、そうやって見ていけば、やはり川中島合戦の登場人物となるのですが、こちらも家紋などもなく残念ながら決め手はなし・・・・。
ただ、槍の使い手で、有名人物である可能性が大。

それならばと調べていくうちに出てきたのが、上杉謙信の家臣で「鬼小島」と恐れられた小島弥太郎。
そのほか、武田方の高坂弾正なども・・・・。
しかし、決め手に欠く以上は、「川中島合戦からの題材(人物特定できず)』としておいた方が、今のところ無難かと。
「だん馬鹿さん、こんな絵ぇ~、あるんやけど」なんてい云う、地車彫刻研究者・彫物師の方などおられましたら、ご教授のほどよろしくお願いします!!
そしてもうひとつ、この地車に田沼源治の彫物があるのかないのかも、今回の見学の目的。
田沼源治は、楢葉地車を細工した野村 正とは兄弟弟子の間柄。師匠の一元林峰亡き後(昭和3年死去)、野村 正や玉井行陽らとともに名作を残した人物。
一元林峰亡き後製作された、岸和田市 春木大国町、田尻町 嘉祥寺、高石市 南(三区)、泉大津市 我孫子町・豊中町、橋本市 御幸辻などなど、多くの地車にその足跡を残し、そのユーモラスで飄々とした表情は、私を魅了してやみません。


昭和3年に製作された、この楢葉の地車にも、その田沼源治の彫物があるのかないのか・・・・。
結果、「これが、田沼だぁ~」というものは、見当たりませんでした・・・・(残念)。
ただ、昭和57年、貝塚市木積にて曳行されていた時の修理において、一部の彫物が入れ替えられているため、田沼の彫物が入っていた可能性も・・・・?
現存するのなら、一度、取り外された彫物を見たいものだと思いながら、楢葉地車の見学レポは、今回でおしまい。
御協力頂きました楢葉の皆さん、ありがとうございました。
「だん通で書くからねぇ」と言ったものの、長らく待たせして申し訳ありませんでした。
新調から今年で84年。まだまだ、現役で曳行される楢葉の地車。
木積の皆さんも、想い出ある地車を見に行かれてはいかがでしょうか。
なお、本日は『各町の地車』楢葉の地車の彫物図柄、詳細データを追加・修正しています。
そちらもご覧下さい!
>>楢葉地車の詳細を見る
ほな、今日はこのへんで・・・・。

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