先週に引き続き、和泉市上代町の新調地車の紹介 その3・・・・
どもぉー、だん馬鹿です

昨日の午前中は、『第5回東日本大震災チャリティー地車見学会』で貝塚市堤の地車を見せていただき、午後からは私の所属する《南河内地車愛好会 河秋会》恒例のリクリエーションで千早でマス釣り大会。
一昨日は、神戸市灘区でおこなわれた『第41回六甲ファミリーまつり』と同区畑原のお別れ曳行の撮影。
土曜・日曜とて家でゆっくりする間もなく、一年中、地車に付きまとわれているような私 だん馬鹿さん。
先週から何かとバタバタで、連載中の上代町の新調地車の紹介も、「今週中にはその3回目を・・・」と予告しておきながら、書く時間もない有様。
上代町の皆様、このブログをご覧いただいている皆様には、申し訳ない限り・・・・(ゴメンなちゃい)。
そんなこんなで、今日はお待ちかねの上代町新調地車紹介のその3回目。
土呂幕・松良の図柄紹介の始まり始まり・・・・。
さて、土呂幕の三方は、大屋根枡合と同じく当ブログでもおなじみの《木彫山本》山本仲伸 師の作。
その土呂幕の三方は、人形浄瑠璃・歌舞伎の演目として知られる『義経千本櫻』からの題材。
源平合戦後の源義経の都落ちをきっかけに、平家の武将たちの復讐とそれに巻き込まれた者たちの喜悲こもごもを描いたもの。

正面は、「大物浦 平知盛の最期」。

右には、「大物浦舟合戦 平知盛、義経に恨みはらさん」。
これらは、『義経千本櫻』の二段目「大物浦の段」の名場面。
あらすじは、こう・・・・。兄 頼朝と不和になった義経主従は、九州に逃れるため摂津国大物浦(現在の尼崎市)から出航しようと、日和待ちで渡海屋という船問屋に宿をとる。
そこの主人 銀平は壇ノ浦で死んだはずの平家の総大将平知盛その人。
共に壇の浦の泡と消えたはずの安徳天皇と乳母の典侍の局を連れ、親子の振りをして大物浦に身を隠していました。

義経に恨みを抱く知盛は、好機到来とばかり、義経をせき立て船出させ、義経を討とうとしたのですが、銀平を知盛と見破った義経はその裏をかいて安徳帝を確保。
討っ手を待ち構え、返り討ちにします。もはやこれまで、知盛は碇を自分の身体に巻きつけ海に飛び込んで壮絶な最期を遂げます。

特に、右の土呂幕に彫られた、幽霊を装った知盛の形相は、まさに鬼気迫る迫力です。
左は、「川連法眼館 覚範を蹴散らす狐忠信」。

これは、『義経千本櫻』の四段目「川連法眼館の段」からの場面。
桜満開の吉野山。義経一行は吉野山きっての実力者 川連法眼の館に身を寄せます。横川覚範(実は壇ノ浦で死んだはずの平教経)らは義経を討とう画策します。そこに義経の家来 佐藤忠信がやってきます。
忠信は平家追討の後、母の看病のために田舎に帰っていましたが、母が死に、自らも破傷風を患い遅くなったが、治ったので戻ってきたと言います。
ところが、大物浦に行く前に、忠信は義経たちの前に現われ、義経は足手まといになる愛妾 静御前を忠信に預けていました。
しかし、忠信には覚えがありません。そこへもう一人の忠信が静御前を伴いやってきます。
どちらが本物の忠信か確かめようと、静が後白河法皇より下された「初音の鼓」を打つと、後から来た忠信が現われます。
実はこの鼓、千年の齢を経た夫婦の狐の皮で作られたもの。親恋しさに、忠信に化け、鼓を持つ静を日に夜に守ってきたのはその狐の子供だったのです。

親を思う狐の心に感じいった義経は、狐に源九郎という名を授け、さらに鼓を与えます。源九郎狐は喜び、やがて押し寄せた横川覚範をはじめ吉野山の荒法師たちを不思議な力で蹴散らすのです。
昨今、地車彫刻では、錦絵などにも描かれた、壇の浦の海底で錨を背負う知盛の姿の「碇知盛」や、知盛の亡霊が海上で義経主従を悩まし、それを鎮める弁慶の姿が彫られた「舟弁慶」の図柄が用いられています。
これまでにも、義経千本櫻の「狐忠信」を松良に彫った地車はあったものの、土呂幕三方に『義経千本櫻』の題材を用いたのは、上代町が初めてかも・・・・?
新調地車への思い入れ、創意工夫が感じ取れました・・・・(おみごと!)。
そして、お次の松良は、左右ともに『平家物語』からの題材。
刻むは、《木彫近藤》近藤晃 師。
右は、云わずと知れた「粟津合戦」。

深田にはまり込み、遠矢を受け非業の死を遂げる木曽義仲の姿。

そして、義仲の愛妾 巴御前の勇姿が刻まれています。
左には、源平合戦の幕開けとも言える「宇治橋合戦」。

保元・平治の乱を経て、平清盛が絶大な権力を掌握する中、平治の乱では平家方に味方したものの、その後不遇な日々をおくっていた源頼政。そして、清盛の孫にあたる安徳帝の皇位継承に不満を抱く以仁王。
頼政の進言により、以仁王が各地の源氏の生き残りに対し平家追討の令旨を発したのが治承4年の4月。
しかし、準備不足の為に計画は露見。落ち伸びようとするも、知盛・重衡を大将とする平氏は2万8000騎でこれを追います。
途中、やむなく宇治平等院で休息を取ることになるも、頼政の軍は時間稼ぎにと宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦。
『平家物語』では、頼政方の五智院但馬や浄妙明秀、一来法師といった強力の僧兵たちの奮戦が描かれています。
戦いは、平家勢の圧勝に終わり、頼政は自害。以仁王は逃れたものの、その後討ち取られてしまったのであります。
この「宇治橋合戦」から3ヶ月後の8月、伊豆で源頼朝が、9月には木曽で義仲が打倒平家の旗揚げ。
源平争乱の火ぶたが切って落とされたのです・・・・。
これで、上代町新調地車の大屋根下腰廻りの紹介は、めでたく終了。
次回から、小屋根・見送り廻りへと突入です。乞うご期待・・・・!
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