茶屋のだんぢり漫遊録

目次

当サイトからのお知らせと、だん馬鹿の信貴山詣で・・・・

ども、だん馬鹿ですパー

年末年始休暇、成人の日を含む三連休と、正月気分の抜けやらぬまま、十日戎は残り福の1月11日水曜日、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

当サイト 年末年始恒例のお年玉キャンペーンは、一昨日を持って終了ぉー!
今日が、その当選者発表の日。
もうご覧になられた方もおられると思いますが、厳正なる抽選の結果、陶器連合西中青年團 様をはじめ、30人の方々が当選されました。

>>当選者発表を見る

いかがでしたか、当たってましたか?
当選された皆様、おめでとうございます!
抽選に外れた方も、これに懲りず、次回のキャンペーンでリベンジのほどを・・・・。

そして、お気付きの方も多いと思いますが、昨年5月よりおこなっておりました、がんばろう日本! 東日本大震災『被災地復興支援チャリティー待受』は、昨日をもって終了させていただきました。
これまでに、御購入いただきました多くのユーザーの皆様からの義援金は、集計ができ次第御報告させていただきますと共に、御購入いただきましたユーザーの皆様、快く協力していただきました多くの彫物師の皆様にはサイト上からではございますが厚く御礼申し上げます。
また、au・SoftBankのユーザーの皆様には対応の遅れから御迷惑をお掛けしました。心よりお詫び申し上げます。

さて、当サイトからのお知らせはこのへんでおしまい。
いよいよこれからが、本日の『だん通』の本題に突入でおます・・・・。


前回の『だん通』では、「だん馬鹿の三が日と・・・・」と題して、私の正月三が日と1月4日に訪れた信貴山の話をさわりだけ書きましたが、ここからが本編・・・・。

信貴山と云えば、大阪と奈良の県境にほど近い、奈良県生駒郡平群町信貴山にある名刹 信貴山真言宗総本山 朝護孫子寺のこと。

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その歴史は古く、今から1400余年前(西暦582年)、聖徳太子は朝敵であった物部守屋を討伐せんと河内稲村城へ向かう途中、この山に立ち寄り、戦勝の祈願をおこないました。

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すると、天空遥かに毘沙門天王が出現。必勝の秘法を授かりました。
太子はその御加護で勝利し、自ら毘沙門天王の御尊像を刻み伽藍を創建、信ずべし貴ぶべき山『信貴山』と名付けました。

毘沙門天王が出現したその日は、奇しくも寅年・寅日・寅の刻。
この寺のシンボル、世界一大きな張り子の寅もこれに由来し、信貴山は今日まで、商売繁盛・金運如意・開運招福・心願成就の徳を授けてくださる七福神のひとり、毘沙門天王を祀る寺、寅に縁のある寺として、多くの参拝者を集めています。

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お寺の紹介はこれぐらいにして、私 だん馬鹿さんもその御利益に与ろうと、1月4日(水)に生まれて初めて信貴山を参詣に訪れました。

そして、お目当てはもうひとつ、この信貴山の境内にある多くの御堂・祠のひとつに、我々がこよなく愛してやまない地車に手を施した地車彫刻師の一人の作品が残されていると聞いていたため。
その人の名は、地車彫刻界にその名を残す名工、玉井行陽

慶応2年(1866)、岸和田浜町の名門大工 玉井信吉の子として生まれ、縁故者の名地車大工《絹屋》絹井嘉七の世話で、これまた地車彫刻界の名工、高松彦四郎の弟子の安田卯ノ丸のもとで腕を磨き、明治中期から昭和の初期までの長きにわたり活躍した、地車彫刻界の重鎮。

大正から昭和にかけ、《絹屋》が請負った『岸和田型』地車には、多くの作品が組込まれています。

その玉井行陽の作品が、この信貴山のどこかにあると云うことで、御堂や祠をくまなく見て廻ること、およそ30分。
毘沙門天王を祀る本堂のたもと、経蔵堂に師の作品を見ることができました。

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「おそらくこれやろなぁ~」と、見上げた経蔵堂の彫物の数々・・・・。

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その御堂の軒先を支える柱の上部、枡合いの部分(寺社建築では蛙股)に彫られた雲水と親子の龍が、師の作品であることを特定できるもの。

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裏面には、『泉州岸和田住人 彫物師 玉井行陽ノ刀』と克明に刻み込まれていました。

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おそらく、この御堂の懸魚・車板・木鼻なども師の作品かと思うのですが、浅学な私には特定できるはずもなく、どなたかご教授を願う・・・・。

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そんなこんなで訪れた、信貴山。
「これは正月早々から、ええもん見せてもろたわい」と、時おり雪が舞い散る中の信貴山詣で・・・・。

その後、御利益があったかどうかは「神のみぞ知る」ちゅうことで、本日の『だん通』はこれまで。
ほな、また・・・・。

信濃屋お半だんじり通信
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