茶屋のだんぢり漫遊録

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名工 木下賢治師、現役引退の日に・・・・

どもぉー、だん馬鹿ですパー

サクラの花も今が満開。
しかし、昨日の雨で早くも散り出した所が・・・・。
花が散れば、お次は新緑の葉桜。
そしてまた、来春にはみごとに花を付け、我々の目を楽しませてくれることでしょう。

4月は我々にとっても、新たに物事が動き出す季節。
若い皆さんにとっては、就職・入学など、人生の節目、新たなスタートの時。
私ら普通のオッさんには、年度替りなくらいで、転勤や解雇でもなければ、「今年も花見だぁー」で、時が流れていくのですが・・・・(なんのこっちゃ)。

さて、私たちが愛してやまない地車の世界でも、人生の節目を迎えられた方が・・・・。

その人は、 《木下彫刻工芸》の代表取締役社長で、地車彫刻界の第一人者、木下賢治師。

岸和田にて「名工・名人・天才」とうたわれ、戦前・戦後と活躍した名彫物師 木下舜次郎師の長男。
父の業を受け継ぎ、舜次郎亡き後は、弟 頼定師らと共に地車彫刻界を下半身不随というハンディーを背負いながらも支え続けた立役者。
その賢治師が、本年3月31日をもって現役を引退されました。

そして、賢治師の長男である木下健司(たけし)師が、父の跡を受け4月1日に《木下彫刻工芸》の代表取締役社長に就任されました。

賢治さん引退の噂を耳にしたのは、昨年の暮れ。
《木下彫刻工芸》を訪れる度に、「親父も体調がすぐれません」と健司師から聞いていたので、世代交代の時が来たのかと、地車彫刻ファンの一人としても愕然。
一度、事の真偽を健司師に聞いたこともあるのですが、その時は知らぬ存ぜぬと言った素振り・・・。

後日、どうやら3月に現役を引退されることが判明。
そうこうしているうちに、賢治 師の弟子であり、健司師とは兄弟弟子の《賢申堂》河合申仁師の作業場によく遊びに行っている河内長野市在住の地車愛好者のK氏から、「取材に行くかぁ~」との連絡。
どうやら河合師を通じ、『上地車新報』の取材をお願いしたらしく、私にもお声がかかったようである。

K氏、《上地車新報》のN君と共に、《木下彫刻工芸》にお邪魔したのが、3月31日(土)の夕刻。
二階の作業場に上がるや、健司師がお出迎え。今年1月にお邪魔して以来、久しぶりの訪問。
なんと、仕事場には賢治師もおられるではあるまいか。

私を見つけるやいなや、「ひさしぶりやなぁー」と、気さくな笑顔。
とてもお元気な様子である。
取材でお邪魔したことを告げ、お身体の調子などをうかがう・・・・。

「わいも今日が、この仕事場最後やねん」。
偶然にもこの日が、引退の日であったようである・・・・(ギョ)。
「そう言うても、ちょこちょこ来るやろけどな・・・・」。
「ここ数年、体調もあれやし、元気なうちに息子に譲って、息子の相談にのったり、あれやこれやとアドバイスするのもエエかな思て・・・・」と、屈託のない笑みを浮かべ私に話してくれました。
「まだまだ、お元気そうやし、バリバリいけるんちゃいますん」と言えば、「若い頃に無理したんで、この身体・・・・」と、昔のことを振り返りあれやこれや。
「親方が頑張ってきたからこそ、今の地車ブーム、新調ラッシュも続いてるんやと思います。言わば、地車界の功労者ですよ」。
「おかげで、私ら彫物ファンも楽しませてもろてます」と言えば、「そんなん言うてくれる人もおるけどなぁー」と、その後もしばらく二人で談笑・・・・。

お元気そうな賢治さんに、少々安堵。
現役最後の日に、無理をお願いし記念写真。

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私とのツーショットもお願いしとけば良かったと、後で少々後悔・・・・(残念)。

ちなみに、親方の最後にノミを振るった作品が、平成21年の大阪市生野区 清見原神社の『福龍』と名付けられた蛙股。

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地車では、平成15年に完成した岸和田市畑町地車の正面土呂幕の『本能寺之変』だとか・・・・(健司師談)。

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祖父 舜次郎、父 賢治、そして孫の健司師と、三代に渡る「木下」の彫物。
これから《木下彫刻工芸》を背負って立つ、健司師については、今後の抱負などを含め次回の『だんじり通信』で・・・・。

親方、賢治さん、五十余年に渡る彫物師人生、お疲れさまでした。
いつまでもお元気で、また色々お話し聞かせて下さいねぇ―!
ありがとうございました。



信濃屋お半だんじり通信
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