茶屋のだんぢり漫遊録

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木下彫刻工芸 代表取締役社長就任の前日に・・・・

どもぉー、だん馬鹿ですパー

前回の『だん通』では、《木下彫刻工芸》の代表取締役社長で、地車彫刻界の第一人者、木下賢治師現役引退をお知らせしました。

今日は前回に続き、4月1日をもって同社の新社長に就任されました賢治師の長男 木下健司(たけし)師への取材・インタビュー。

まずは、新生《木下彫刻工芸》を背負って立つ若き親方 健司師のプロフィールから。

健司師は、昭和44年3月4日、賢治師の長男として岸和田で生まれました。当年、43歳。
昭和の「名工・名人・天才」とうたわれ、戦前・戦後と活躍した名彫物師 木下舜次郎師の孫にあたります。
昭和47年、父 賢治師が30歳の時に、祖父 舜次郎師が逝去。
舜次郎師が、孫の健司師が彫物師になることを望んだのかどうかは知る由もありませんが、昭和61年に父 賢治師のもとに入門。
今回の取材を段取りしてくれた《賢申堂》河合申仁師とは、同級生であり、兄弟弟子であり、仕事仲間、良きライバル。

初めて荒彫から任された仕事が、平成3年に完成した忠岡町仲之町の車板。
平成9年に完成した堺市久世地区 平井地車には、健司師が初めてノミを振るった土呂幕が組み込まれています。

ともに写真が無いのが残念・・・・(申し訳ない)。

下半身不随の、父であり親方である賢治師を、兄弟弟子たちとともに支え、近年は私が間違って「親方」と呼んでしまうぐらい、木下彫刻工芸の仕事のほとんどを任されれていました。

私が健司師と初めて言葉を交わしたのが、平成12年の7月、岸和田市福田町地車の記念誌の撮影の折だったでしょうか、祖父 舜次郎の彫物について熱く語ってくれたのが印象的でした。
いずれは、親方 賢治師のあと受け、三代に渡る「木下の彫刻の業」を守り引き継いでいくのだろうと思ってはいましたが、健司師を知る者としては嬉しい反面、賢治師の引退は寂しい限り・・・・。

取材に訪れた日、健司師は私にこう語ってくれました。
「プレッシャーが無いと云えばウソになるけど、今まで通り、当たり前の事を当たり前にこなしていくだけです」。
「おじいさんや親父らが培ってきたものを受け継いでいくだけ」。
また、「最近は新しい図柄を求めるお客さんも多く、新しい図柄にもチャレンジしていかなければなりません」。
「お客さんを満足させるのは当然のことですが、これまでのオーソドックスな図柄でも先人らの作品を越えられるよう頑張ります」と熱意は相当なもの。

「これからは健司くんじゃなく、親方ってちゃんと呼ばなあかんな~」と言えば、「そんなん、別にどうでもいいですよ」と照れくさそうに笑っていました。

今年4月29日に入魂式が予定されている堺市芦原濱の太鼓台が「木下彫刻工芸 木下健司」の名前でのデビュー作。
地車では、5月5日に入魂式がおこなわれる岸和田市南掃守地区 上松町の新調地車。

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今後の抱負のほかに、彫物細工や昨今の地車事情についても話をうかがうことができました。
最後に、父であり、親方である賢治師とともに写真に納まってくれました。

木下彫刻工芸の益々の発展を祈り、地車文化・地車彫刻を支え、日本の伝統文化のひとつ「木彫」の技を守り続けられんことを切に望みながら作業場をあとにしました・・・・。





信濃屋お半だんじり通信
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