祝 地車新調80周年、泉大津市豊中町のだんじり・・・・
どもぉー、だん馬鹿です

一昨日5月13日(日)は好天に恵まれ、『第35回東大阪市民ふれあい祭り』・『第17回灘のだんじり祭』・『第6回守口だんじり祭』など、地車が参加曳行するイベントが各地で華やかにおこなわれました。


また、大阪市生野区 中川では地車曳行の母体とも云える《中川正進会》発足100周年記念の地車曳行もおこなわれ、撮影スタッフ一同、朝から東奔西走・・・・(辛)。

先日終わった春の神戸だんじり祭の撮影疲れも癒えぬまま、慌ただしい一日が過ぎていきました。

私 だん馬鹿さんは、お昼からおこなわれる『第17回灘のだんじり祭』の撮影を担当。
その前に、想い出深い地車を見るために、少々寄り道して泉大津市の泉穴師神社を訪れてきました。
10月の体育の日の前の土曜・日曜におこなわれる同神社の祭礼では、『飯之山神事』に使われる「飯之山」地車をはじめ、豊中町・池浦町・我孫子町・板原町の5台の地車が曳行されています。
思い起こせば今から9年前の平成15年12月7日、豊中町の友人Y君を通じ町会の方々に無理を言い、豊中の地車と飯之山地車を泉穴師神社の境内に二台並べて、地車の見学会をおこなって頂きました。
その情報がどこでどう伝わったのか、多くの地車ファン・地車研究者が訪れ境内は騒然たる状況。
その数、ゆうに200人以上(だん馬鹿調べ)。
中には、神社周辺道路に路上駐車する輩も多く、警察が取り締まりに出動するようなありさま。
あれから9年の歳月が流れ、私同様に当時青年団であったY君もオッサンに・・・・(笑)。
その豊中町の地車が、今年新調から80周年を迎え、5月13日に新調80周年の記念イベントをおこなうとの情報を入手。
ならば、久しぶりにこの地車を見てみようと泉穴師神社へ・・・・。

私が泉穴師神社に着いた午前9時すぎには、豊中の地車は境内中央に曳き出され、「祝 地車新調八十周年」と記された看板が大屋根の軒下に吊り下げられていました。

また、地車の正面には、記念すべきこの年を祝うかのように日の丸の旗と花輪が取り付けられていました。

境内では、町民に振る舞うため、紅白の餅が若者らの手でつかれるなど、町民が一丸となっての記念行事。
町内の子供向けに、わた菓子など数々の模擬店も設けられ、多くの子供らで賑わっていました。

豊中の地車は、昭和7年7月に地車大工 植山(現 植山工務店)から購入した『岸和田型』地車。
当時、同工務店で造り置きされていた「仕入れ地車」二台のうちの一台。
昭和3年の池浦の『岸和田型』地車購入当時、また板原が『岸和田型』地車を曳行していたこともあり、豊中でも『岸和田型』地車購入の機運が高まり、昭和6年に購入を決定。
当初は中古地車を購入すべく、役員13名が5組に分かれ、泉州方面を探し歩いたと云います。
そのうちのひと組が、《植山》に製作途中の二台の地車があることを探し当て、その夜に緊急会議。
「穴師神社 宮本一番」の名に於いて、他町に恥じぬ地車をと、万場一致で二台のうちの何れかを購入することに決定。
翌昭和7年6月1日、植山宗一郎 匠と正式に契約。
7月の初旬に、岸和田から曳いて帰って来たと伝わっています。
ちなみに、《植山》にあったもう一台は、くしくも隣村の板原が購入した、同町の先代地車(現 堺市菱木奥)。
彫物は、関東彫《一元》一門の田沼征信(源治)を責任者に、《黒田》一門の木下舜次郎・松田正幸、京都の吉岡義峰・吉岡喜代司らが手を加えています。
特に、土呂幕三方は田沼征信(源治)の作。
人物の表情は特に絶品! その個性豊かな顔つきは、ユーモラスかつ繊細で、その表情は見る者を魅了します。

また、馬は小ぶりではあるものの、躍動感に満ちあふれているのも師の作品の特徴。

「左ェ門」、「舜さん」、「開さん」などが、地車彫刻界における大輪の華ならば、こちらは野に咲く一輪の野菊のような存在。
地車彫刻の世界でも、詳しくは解っていない謎めいた彫物師なのです。
9年前の見学会も、この田沼の彫物を見せていただくのが目的。

記念イベントがおこなわれた5月13日は、見送りの金網は外されていたものの、腰廻りは付いたままの状態。
久しぶりに、金網の無い状態で、じっくりと見てみたいものだと思いながら、泉穴師神社をあとにしました。
池浦、板原、そして平成27年の我孫子と、穴師地区では地車の新調が続いていますが、はたして豊中は・・・・。
地車ファンの一人としては気になるところですが、とりあえずは幾久しく無事曳行を願うのみ。
豊中のみなさん、新調から80年、おめでとうございます。
<<前の記事 | 次の記事>> |