茶屋のだんぢり漫遊録

目次

すっ飛ばしてた、和歌山県九度山町 河根地車の続報です・・・・

どもぉー、だん馬鹿ですパー

10月30日の『だん通』で紹介しました、和歌山県九度山町河根の地車

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「新たな新事実が・・・・!」、「次回 だん通に、乞うご期待・・・・!!」と書いたものの、一度は完璧に忘れ、前回の『だん通』で書こうかと思えば、資料は会社の机の上・・・・。
二度に渡り、すっぽかしてしまったものの、ご覧いただいている皆様からは何のお叱りも無く、胸をなでおろしている私 だん馬鹿さん。

そんなこんなで、今日の『だん通』はお約束の通り、河根の地車の続編でおます・・・・。

まぁー、その内容を忘れた方もおられると思いますので、まずは10月30日の『だん通』を読み返していただいて、本編へと突入!

>>10月30日の『だん通』を見る

はぁーい、お帰りなさい!
思い出していただけましたか?

あの真田幸村が幽閉されていた、和歌山県九度山の地。
丹生川に沿って東にある山里、河根。
まさかこんな所に地車があろうとは・・・・。

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残念ながら、私が訪れた10月20日(土)は、神社本殿の修理完成を祝う正遷宮の日。
地車の曳行は翌日とのことで、小屋の中だけでの見学と相成りました。

翌週の土曜日、10月27日に再度、河根を訪れ、河根丹生神社境内の小屋から地車を出していただき、飾り物などを外した状態で、見せていただきました。

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その全貌を現した河根の地車は、全高2m50cmくらいでしょうか、外ゴマの小ぶりな地車。

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台木の前後に曳き綱が取り付けられており、後部のはおそらく坂道を下る時のブレーキの役割を果たすのでしょう。

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大屋根部分には枡組・台輪が施されていますが、小屋根部分には組ものなども無く、屋根のケタが直接柱の上に乗っかっています。
そのため、大屋根部分には、枡合の彫物があるものの、小屋根の部分は屋根のケタの下に見送りの三枚板が取り付けられています。

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勾欄は、地車の前部、大屋根の下だけに配され、縁葛に相当するものは無く、見送りの三枚板も縁板より下まで縦に長くなっています。

屋形細工は簡素であるものの、大屋根枡合、木鼻、大屋根前後と小屋根の懸魚、見送りの三枚板は、なかなかの出来栄え。

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ただ、「鳳凰」が彫られた三面の懸魚のうち、大屋根前後の「鳳凰」の頭部が欠損しているのが残念・・・・。

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幸にも、小屋根のものは頭部も欠損しておらず、その姿を留めていました。

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三枚板は右に「竹に虎」、左に「鯉の滝登り」、そして後正面が「波に龍」。

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懸魚・木鼻・三枚板ともに、どこかで見たような彫物師の作品であるものの、銘や墨書きは見当たらず、とりあえずは作者不詳・・・・。
おそらく、江戸末期から明治期に彫られたものでしょう・・・・?

10月20日に訪れた際に70代半ばの方が、「子供の時分からあるでぇー」と言っていたことを思えば、戦前にはこの地車が河根の地にあったことは紛れもない事実。
しかし、製作した大工や彫物師などは銘や墨書きなども見当たらず謎のまま・・・・。

彫物の木の枯れ方から想像すれば、製作から100年以上の歳月を経ているのかも知れません。

一通り写真撮影を終え、わざわざ地車小屋を開け見せて下さった方と暫し談笑。
「怪しい地車マニアを連れて、また来るかも知れませんが、その時はよろしく・・・・」とお願いし、午後からの橋本市学文路天満宮 清水・学文路・南馬場の三台の地車の曳行を撮影するため、河根丹生神社を後に・・・・。

道すがら昼食を取り、南海高野線学文路駅前に着いたのが午後2時前。
ちょうど、駅前に留め置かれた学文路地車の出発式がおこなわれるところ。

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ここで、橋本市在住の地車研究家であり私の兄貴分でもあるI氏と合流。
河根地車を見に行って来たことを報告。
そして、残念ながら所用のため一緒に行くことができなかったI氏から思いもよらぬものを手渡されました。
それは、I氏の知人S.R氏がかつて九度山町史の編纂の折、河根の集落で収集した文書のコピーでした。

そこには、河根山車(地車)購入に際しての詳細が記されていました。

河根の地車は、前回の河根丹生神社の社殿修復の正遷宮がおこなわれた昭和7年に製作されたもので、坂中芳太郎という大工が製作にあたったとのことでした。
彫物は昔のものを使用し、用材は檜材で、柱に限りケヤキをなるべく使用することなどが記されていました。
また、金物は磨きを、田中廣一に依頼したことも書かれていました。

このことから、今を遡る80年前の正遷宮以前から地車が存在し、その彫物や金物を利用して、その年に屋形を作り替えたことが読み取れました。

後日、このことを地車小屋を開けて地車を見せていただいた方にも電話で知らせたところ、すごく驚かれたようでした。
河根には現在も、坂中と言う家が数件あるとのことで、村内で大工を営んでいた方が製作にあたったのかも知れません。

くしくも、前回の正遷宮、地車の屋形を作り替えてから80年後の正遷宮の今年、村内でも忘れさられようとしていた地車の製作者や金物の磨き直しをおこなった人の名が判明しようとは。
これも、河根丹生神社の神様のお導き・・・・?
日ごろから、あほなことばかりしている私も、少しはお役に立てたのかも知れません・・・・。

では、今宵はこれにて、失礼します・・・・(ペコ)。

信濃屋お半だんじり通信
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