中津原の先代『担いだんじり』って、どんなんかなぁ~?
どもぉー、だん馬鹿です!
昨夜遅くから降り出した雨は今朝には上がったものの、午前中に用事を済まし帰宅後、我が家でウトウトし目を覚ませば、窓の外から雨音が・・・・。

「女心と秋の空」ではないものの、最近の天気はよぉ~解りません。
明日、12月16日(日)は衆議院総選挙と最高裁判所裁判官国民審査がおこなわれます。
我が国の未来を担う国政選挙。これもまた、よぉ~解りませんけど・・・・。
さて、前回の『だんじり通信』は、少々レアな千早赤阪村中津原の地車を簡単にではありますが紹介させて頂きました。
その中で、中津原(上中津)の先代『担いだんじり』の彫物の一部が現地車に組み込まれていることなどを書きました。
そのようなことを書けば、先代の「担いだんじりは、どんなんかなぁ~?」と思うのは、世の常、人の常・・・・。
まして地車マニアの方々にとっては、「見てみたい!」と思うのは当たり前。
ハイハイ、お任せあれ!
上手い具合に、その画像が見つかりました・・・・。
これが、噂の中津原(上中津)の『担いだんじり』でおます。

六本の柱に『石川型』様の大きなむくりの屋根がひとつ。

車板、小屋虹梁と台輪を挟み、その下には二段の虹梁。
もちろん彫物もきちんと施されています。

車板や枡合は、「二十四孝」からの題材。

虹梁は、「龍」や「牡丹に唐獅子」の彫物・・・・(欠損部分が多いのが残念)。

屋根の上には、《彫又》風の「獅噛み」もきちんと付いています。

土呂幕の正面は、火燈窓のようで「菊紋」の彫刻が施されていますが、左右は「引き戸」になり、中は物入れになっています。

柱は土台までの「通し柱」ではなかった様に思いますが・・・・。
私らがこの「担いだんじり」を見に訪れたのは、今を遡ること11年前、平成13年9月22日の夜のこと。
私も末席に名を連ねる《南河内地車愛好会 河秋会》が例年おこなっている『南河内の祭り展』の打ち合わせの席上、誰が言い出したのかは記憶にありませんが、「千早赤阪村中津原(上中津)にだんじりがある」との発言。
「誰か知り合いはおらんのか?」とワイワイガヤガヤ・・・・。
誰かが連絡を取り、善は急げ!
その日の夜遅く、保管されている倉庫のある中津神社に向け、調査隊5・6名を急遽編成し現地を訪れました。
9月の末とは云え、山深い中津原。あたりは真っ暗。
肌寒さを感じながら坂道を登り、神社の境内では、かがり火を焚き、秋祭りにおこなわれる獅子舞の練習中。
快く倉庫を開けて頂き、見せてもらいました。
馬木の上に乗せられていたものは、泉佐野市大木 火走神社や和歌山県橋本市 隅田八幡神社の祭礼などで担がれているものとは全く違い、一同目が点・・・・。


この年の『南河内の祭り展』では、この『担いだんじり』を借り受けて展示。
搬出時には、祭りさながらに会場のすばるホールの館内を担いで、外に出したのが昨日のよう・・・・(写真が見つからず、申し訳ない)。
上中津の方々の話では、平成期に入ってからは出していないとのこと。
現地車製作に伴い、惜しくも解体されてしまったので、この祭り展で担いだのが最後の勇姿。
貴重な地車文化を知る上での資料も消え失せてしまいました。
ただ、解体された部材からは「小寺新兵衛」という墨書きが発見され、後日、富田林の新堂組大工の名前であることが判明。
南河内で多く見られる『石川型(にわか地車)』を調べる上での足掛かりとなったのも、この「担いだんじり」があったればこそ。
先日、河秋会同胞のYちゃんと二人で、11年前を懐かしみながら、話は尽きる間もなし。
思い出にしたりながら、今宵はこのへんで失礼します・・・・。
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