茶屋のだんぢり漫遊録

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かつての賑わいは・・・。 だん馬鹿、住吉区若松神社にて思う・・・

どもぉーだん馬鹿ですパー

毎日寒い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?
巷ではインフルエンザが流行っているようで、私の上司も先週末からインフルエンザでダウン。
熱も下がり本人は完治と宣っていますが、身体はまだまだウィルス全開。
本人は家から出たがっているようですが、いわば凶器の殺人マシン…。
皆さんも予防の為にマスクの着用を!

さて今日の『だん通』は、昨年11月に訪れた大阪市住吉区沢ノ町に鎮座する止止呂支比売命(トドロキヒメミコト)神社、通称 若松神社にまつわるお話しです。

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堺から大阪和泉線南線(通称 13号線)で大和川を渡り、南海高野線の踏切を過ぎ、左手にある神社がこの若松神社。
住吉周辺の氏神様で、墨江各町・安立(アンリュウ)各町・浜口各町・住之江各町・西住之江各町・遠里小野(オリオノ)各町・沢ノ町各町・殿辻各町・千躰(センタイ)各町・清水丘各町・南住吉二丁目~四丁目・山之内の一部などが現在の氏地です。
祭神は素盞鳴尊と稲田姫尊で、いつ頃からあるのかはわかっていませんが、延喜5年(905)に編纂された『延喜式』に記される由緒あるお宮さんです。
また、地元では親しみを込め、「若松さん」と呼ばれています。

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江戸末期の寛政8年(1796)~10年(1798)に刊行された、摂津国の通俗地誌で観光案内書でもあった『摂津名所図会』にも載っている旧跡。
境内にあった「轟(トドロキ)池」の名前から、別名 轟(トドロキ)神社とも呼ばれていました。
その池は現在存在していませんが、明治33年(1900)の高野鉄道(現 南海高野線)開通のためでしょうか、埋め立てられ今はその上を電車が走っているそうです。

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往古の祭礼時には、かつての沢之口・浜口・千躰・殿辻・遠里小野・島・安立町など、周辺の町村から地車が曳きだされ、活気溢れていたそうです。
また、住吉大社の大祓「住吉祭」の際、御神輿が堺宿院の頓宮へ御渡りおこなう時にも、大和川を超え堺の旧市街へと曳行されていたのかも知れません。
しかし、現在では若松神社の祭礼や住吉祭の日に地車の姿を見る事はできません。
これは、明治29年旧暦の8月1日、住吉大社の大祓「住吉祭」の時に、堺の中之町西の大道で湊組(出島)の船地車と北の包丁鍛冶組の地車が、行き違いの鉢合わせに端を発した大乱闘の大喧嘩が元で、殺傷事件に発展。
多くの逮捕者を出し、これ以後、堺旧市域での地車の曳行は禁止されました。
その為、堺旧市域からは地車の姿が見られなくなりました。
数年後には、地車からふとん太鼓へと祭礼形態も姿を変え、もとの地車は堺周辺地域や河内長野や奈良方面、遠くは和歌山県橋本市へと売却されました。
その余波もあったのでしょうか、若松神社の氏地からも、地車は徐々に姿を消していきました。

明治後期から大正期に住吉方面から中古地車を購入しと伝わる町が多く存在し、現在でもそれらの地車があちらこちらの場所で曳行されています。
私の生まれ育った堺市津久野でも、中組が明治44年に安立町5丁目から(平成25年より門真市打越で曳行)、神野町は大正3年に遠里小野の一字から購入しました(現 西淀川区姫島地車)。
また、津久野のお隣りの家原寺町は昭和15年頃に同じ遠里小野の一字から購入したと云われており、おそらくこの地車(現 東大阪市吉田川島地車)が若松神社氏地をあとにした最後の地車と思われます。
他にも、河内長野市向野や和歌山県橋本市柏原の地車(河内長野市片添先代)も、若松神社氏地内で曳行されていたものです。

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向野、柏原、いずれの地車の大屋根正面の車板には、「轟神社」の名前が記された額が今なお取り付けられており、いずれの町村から購入したものかは定かではありませんが、若松神社の氏地内でもともと曳行されていた地車である事は間違いないでしょう。

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「住吉あたりから購入」と云われる地車の多くが、我々地車研究者の間で『板勾欄出人形式住吉型』と呼び交わされている地車で、《住吉大佐》や《住吉大源》などの地車大工の手によるもの。
勾欄部分には、波などの彫刻を施した「板勾欄」と武者ものの「出人形」、その内側に「擬宝珠勾欄」。
見送り部分には、「板勾欄」と大きな「出人形」が配されているのが、一番の特徴。
そのほとんどが、《堺彫又》一門の手による彫物で、江戸末期から遅くとも明治の中頃に製作されていると考えられています。

現在、例年10月7日・8日の若松神社の例大祭(秋祭り)のあたりには、神社青年部「若衆会」により神輿渡御行事がおこなわれています。
これは、平成19年におよそ50年ぶりに復活したものだとか。
また、沢之口や殿辻では子供地車(山車)が曳き出されているとの噂も・・・・。

境内でひときわ目を引いたのが、絵馬堂と思しき建物に付けられた、巨大な龍の彫物。

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そして境内の片隅にあった、昭和28年に建てられた「神輿奉納発起人」の石碑や、戦前に建てられた石碑や石柱。

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特に私の目を釘ズケにしたのは、昭和16年4月の解団を機に建てられた安立北青年団の「献木」と刻まれた石柱。

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おそらく、安立北は現在の安立町一丁目(元の安立町1~3丁目)のことでしょう。
明治後期から大正期にかけて、氏地各町村、様々な理由から地車の廃絶・売却と相成りましたが、そのような悪夢のような事態を打破すべく結成されたのでしょうか、大正8年5月に発団。

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しかし、大陸での戦域拡大、太平洋戦争開戦を目前に、徴兵などで男衆の不足から解団を余儀なくされたのかも知れません。

平成19年には、神輿渡御が復活した同神社。
かつては、多くの地車が宮入をおこない賑わいを見せたことでしょう。
いつの日か、笛や鉦、太鼓の音を轟かせながら、地車が曳行される光景が見られないものかと、夢のようなことを思いながら、若松神社をあとにしました。

では、今日はこれで失礼します・・・・(ペコ)。

信濃屋お半だんじり通信
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