津久野 宮山の修理完成入魂式は、新調から20周年の・・・・
どもぉー、だん馬鹿です

公園のサクラの花も、まだ少しは残っているものの、早くも緑色の葉っぱが芽吹いています。
今年こそはお花見になどと思っていましたが、また行けずじまい。
来年こそはと思いながら、新緑の季節がそこまでやって来ています・・・・。
天気予報では、全国的に荒れたお天気と予想されていた、この前の土曜・日曜日。
土曜日の朝から雨模様。

4月7日の日曜日も昼すぎまでは荒れ模様とのことでしたが、堺市津久野地区 宮山地車の修理が完成し、入魂式・御披露目曳行がおこなわれました。
前日から、暴風波浪注意報が発令されていたこともあり、搬入時に暴風警報が出ていれば、運搬時の危険を考慮して工務店からの搬送も中止し、延期するとの宮山の友人からの情報。
「町内に搬入できれば、大雨であろうとも曳きますよ!」とのことで、搬送車に積まれた地車は午前6時ごろに町内へ搬入され、曳行が始まる8時30分まで、ひとまず地車小屋の中に・・・・。

その間も容赦なく、時折冷たい雨風が降りつけていましたが、そんな荒天にも関わらず、多くの地車ファン・見物人が詰めかけていました。

午前8時30分、予定通り宮山の地車は小屋から出され、神事のおこなわれる踞尾八幡神社に向け曳行開始。


この頃から雨脚も少し弱まり、阪和線沿いの長い坂を上り、神社へ到着・・・・。

地車は拝殿前に留め置かれ、神事・セレモニー・餅まきがおこなわれました。


宮山の地車は、平成5年に新調され、翌平成6年に完成した、『岸和田型』地車と『堺・住吉型』地車の要素を組み合わせた、『折衷型』の上地車。

製作は《天野工務店》天野行雄 匠、彫物は松並義孝 師の手によるもの。
見送りは『岸和田型』地車形式の「立体形式」で細工され、屋根廻りの組ものは「化粧枡」が組み込まれ、ひときわ豪華に見える上地車。
ひときわ目を引くのが、大屋根正面の懸魚。
題材は、その昔、源義経が踞尾八幡神社を訪れ、武運長久と戦勝祈願した際に馬の鞍を奉納したという、「義経、鞍奉納」。

今日、この鞍の行方は定かではありませんが、神社の境内の片隅には、義経が腰を掛けたという「義経腰かけ石」が今なお残されています。

この地車の彫刻を手掛けた松並 師の創意工夫が感じとれる作品です。
今回の修理は、昨年の祭礼時の曳行中に起きた衝突事故に伴う、「担い棒(肩背棒)」やその取り付け部分などの修理。
小規模な修理のため、「御披露目曳行までするぅ~?」なんて方もおられるかも知れませんが、新調から20年目の記念すべき年にあたり、この町の宝に感謝し、町内においてもこの素晴らしき地車を再認識してもらうべく、御披露目曳行がおこなわれました。
さて、神事・セレモニーを終え、拝殿の前では、「瓢箪ばかりは浮ものじゃあー!」の津久野独特の掛け声で、威勢よく地車の前が持ち上げられました。
屋根の上からは、修理の無事完成と新調から20年目を祝い、餅まきがおこなわれました。

午前10時、この頃には雨も上がり、地車の雨合羽の外され、神社をあとにお披露目曳行の開始。

津久野地区全域は回りませんでしたが、阪和線から西側、自町内を中心に曳行。

途中、豪快な「やりまわし」を披露。

地車小屋から神社横の急な坂も、綱を持つ子供から大人まで、力を合わせて上り切りました。

正午を前に、御披露目曳行は無事終了。
泉州地域においては今年最初の入魂式。多くの地車ファンが見守る中、終わりを告げました。

津久野地区においては、昭和59年の大東先代『折衷型』地車の新調を皮切りに、平成5年の宮山、そして津久野全町が地車の新調を果たしました。
大東も平成17年に『岸和田型』地車を新調するなど、今や宮山を除く5町が『岸和田型』へと移行。
残るは宮山のみ・・・・。
以前から、『岸和田型』地車新調の噂は絶えず、今後の動向が気になるところ。
果たして新調30周年があるのかないのか?、同じ津久野に生まれ育った私としても『瓢箪ばかり・・・・』の掛け声が聞かれなくなるのは寂しいものの、これも時代の流れかと思いながら、この日、津久野の地をあとにしました。
では今日はこのへんで、失礼します・・・・(ペコっ)。
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