茶屋のだんぢり漫遊録

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泉南の『やぐら』に、美濃村を見た・・・・!

どもぉー、だん馬鹿です!

いやはやいやはや、今日は真冬を思わせるような肌寒さ。
紅葉の晩秋の季節を飛び越え、早くも冬の到来?

この寒さで、山の紅葉もより一層美しく、彩を増すのかも知れませんが、そんなことよりも寒いのはご勘弁、御勘弁・・・・。
近年、めっきり寒さに弱くなった私にとっては、紅葉もテレビ鑑賞で十分。
もはや、冬ごもり態勢の私 だん馬鹿さんなのであります。

さて、11月24日、この前の日曜日、久しぶりに泉南市まで『やぐら』を見に行ってきました。

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同市岡田の西組が、来年の『やぐら』新調に先立ち、現『やぐら』の昇魂式・曳き納めをおこなうとのことで、訪れてみることに。

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西組の『やぐら』は、大正5年に新調されたもので、製作大工は大苗代(おのしろ:現 泉南市信達大苗代)の《大寅》こと 若野寅太郎

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小屋根下左の幕板の角には、「請負人 北信達 若野寅太郎」の銘が刻まれていました。

彫物は、美濃村松雲の手によるもの。

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これまた、小屋根下右の幕板の角に「調(彫)刻師 大阪本町四丁目 美濃村松雲」の刻みが・・・・。

もちろん、私が岡田西組の『やぐら』を見に訪れた目的は、もちろんこの美濃村松雲の彫刻をこの目で確かめるため。
美濃村松雲の名が刻まれた『やぐら』が岡田に存在していることは聞いていましたが、これまで見る機会もなく、この日が初対面。

地車彫刻研究者のバイブルともいえる《大坂・浪花木彫史》によると、美濃村松雲なる人物は、地車彫刻にその名を残す《小松》九代目 小松源助(岡村平次郎)の弟子で、師匠亡きあと「小松 十代目」を名乗った人物。
明治10年淡路島に生まれ、本名は宮下松三郎。
幼くして、大坂彫刻界の名門 美濃村五兵衛の跡目養子になり、義父五兵衛の元で手ほどきを受けたのち、《小松》九代目 源助の門人となり頭角を現したそうです。

おそらく、明治中頃からは九代目 源助の元で、《住吉大佐》が手掛けた地車をはじめ、数多くの
地車彫刻を助となり刻んだと思われますが、美濃村松雲の名を残す地車には、私自身これまでお目にかかったことはありません。

大阪市西淀川区 姫島の子供地車も美濃村松雲の手によるものといわれていますが、銘があるのやないのやら・・・・?

唯一お目にかかったのは、大正末期に製作されたとされる東大阪市池島町乾の太鼓台
この太鼓台の土呂幕には「東区本町四丁目 彫刻師 十代目小松事 美濃松雲」と刻みこまれていました。

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岡田西組の小屋根下の幕板は、左右一対で『義経八艘飛』
右の幕板には、船から船へと飛び移る源義経の姿が。

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左には、義経を逃がしてはなるものかと、後を追おうとする平教経の姿。

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地車彫刻ではオーソドックスな題材で、《大佐》の手による地車にも多く見られる図柄。

先に述べた池島 乾の土呂幕にも同じ題材の彫物が施されていたと思うのですが、撮り貯めた写真を探せども探せども、見つからず。

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たまたま、大東市在住の地車彫刻研究の大先輩のブログにUPされていた写真をちょっと拝借。
ノミ跡・構図は、まさに瓜二つ・・・・。

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まぁー、同一人物が彫ったのですから似ていて当然なのですが、少々仕上げが違うような?

大屋根下右の幕板には、「鷺池平九郎」。

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左には、「那須与一、扇の的」。

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いずれも、美濃村松雲の手によるものかと・・・・。

美濃村松雲は、昭和4年3月14日に享年53歳で、この世を去ったとされていますが、この西組の『やぐら』を手掛けたのは、まさに油の乗り切った40代の初め。

数多く存在する《小松》一門の手掛けた地車の中に、このようなノミ跡の三枚板や土呂幕が多く存在するのは明白

機会があれば、《住吉大佐》の手掛けた地車を再検証する必要もあるのではと思いながら、この日は所用のため後ろ髪を引かれる思いで、足早に岡田の地をあとにしました。

またどこかで、美濃村松雲と思しき彫刻を見つけたら御報告したいものだと思いながら、今夜の「だんじり通信」はこのへんで失礼します・・・・(ペコっ)。

信濃屋お半だんじり通信
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