惜しまれつつも、柏原市安堂の地車、解体される・・・・!
どもぉー、だん馬鹿です!
三連休の最終日の今朝、久しぶりに朝寝坊を決め込み、午前10時頃に起床。
しばらくして、携帯電話がけたたましく我が家に鳴り響きました。
電話をくれたのは、友人のY君。
電話の向こうからは、「安堂の地車、今朝からばらしてるみたいですよ・・・」との慌てふためいた声。
町の人からは、今週の平日に解体すると聞いていたのですが、どうやら予定が早まり、急遽今朝から解体作業が始まったよう。
それならばと、町の方に確認を取り、友人たちにも連絡。
身支度を整え、カメラを片手に、車に飛び乗りスタート・・・・。
現地に着いた頃には、屋根や柱、彫物の類も既に取り外され、台木が解体されようとしていました。

今朝から地車の解体作業がおこなわれたのは柏原市安堂の地車。
1月11日(土)の前回の『だんじり通信』でも簡単に紹介した、『堺型』地車。

おそらくは、江戸末期から明治期に堺の地車大工により製作されたと考察できるもので、これまでに大規模な修理・改修もおこなわれていない、原型を今だ留める貴重な一台。
その地車も製作から100年以上の歳月を経て、老朽化も顕著に見られるようになり、平成7・8年ごろには鋼材で補強されジャングルジムのような姿になってしまいました。

昨年の夏まつりを前に、新たな地車を購入し、次世代に継承しようと有志らが立ち上がり、中古地車の購入を決定。
縁あって、今年地車新調予定の河内長野市三日市地区 上田から地車を譲り受けることに。
昨年12月1日(日)には、解体前にひとまず元の姿へ戻そうと鋼材が取り外され、12月22日(日)には、昇魂式がおこなわれました。

この正月三が日には、初詣に訪れる町民の方々に最後の雄姿を見てもらおうと、二宮神社の境内にある地車小屋から曳き出され、据え置かれていました。

そして今朝からの解体作業・・・・。

気になっていたのは、製作年・製作大工・彫物師・新調した町などが特定できるような墨書きの有無・・・・。

しかしながら、私よりも先に着いていたY君をはじめ、友人に聞けば、そのような墨書きらしいものは発見できず、購入時または修理時に書かれたであろう、部材に記された町の方々の名前のみ。

二宮神社拝殿に掲げられた、昭和12年以降に三宝や圓座(丸い座布団)などを寄付した人の芳名額にもそれらの人の名前が残されていることからも、昭和の前期にこの地車が購入され、この地で組み上げられたのか・・・・?
また、部材を入れ替えるほどの大修理のために、一度解体された可能性も・・・・?

町内では、購入経路やこれまでの修理記録や口伝なども残っておらず、それを知る手がかりもこの墨書きだけで、残念ながら特定には至りませんでした。
日暮れを前に解体作業も無事終わり、彫物と古い部材が残るだけに・・・・。

町の方々にとっては、慣れ親しんだ地車との惜別の時。
思い出をたくさん与えてくれた地車との別れ・・・・。
私自身、手つかずの原型を残す貴重な『堺型』地車が姿を消してしまったことは残念に思いますが、これも次世代への祭礼文化継承のためとあらば致し方ないこと。
途中からでしたが、解体作業を目の当たりにして、少々複雑な心境・・・・。
この日集まられていた方々にとっても、地車曳行・祭礼を次世代へ継承していくための苦渋の決断とも言えるでしょう。
各地で江戸の昔から脈々と受け継がれる地車の曳行も、町の方々のこの様な苦渋の思いがあったればこそなのかも知れません。
幸いにも、今日取り外された彫物の一部は柏原市内の資料館で展示保存される予定とか・・・・。


上田から譲り受ける新たな地車は、今春に安堂の地に搬入される予定。
今年の夏まつりでは、その地車で、安堂の地車史に新たな歴史を刻み込むことになるでしょう。
陽も暮れかかった頃、少し複雑な思いを胸に、安堂の地をあとにしました。
ほな、今日はこのへんで失礼します・・・・(ペコっ)。
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