地車空白地域の彫刻奉納額・・・・
どもぉー、だん馬鹿です!
昨年の暮れのこと、とあるブログを見ていて、そこに映し出された一枚の写真に目が釘づけになりました。
それは、額装された3枚の板状の彫物。
おそらく、上地車の見送り三枚板の彫物を一枚の額に仕立て、奉納額として神社に納められたと思しきものでした。
この様な、地車彫刻を再利用したような奉納額は、奈良県下の広い範囲の地域の神社などで目にしたことが、これまでにもあるのですが、そのブログにアップされていたものは今回初めて目にするもの。
今日でも、奈良県下の多くの神社では、子供が生まれた時などに健やかな成長を願い、絵馬や扁額が氏神様に奉納されています。

また、奈良県下に限らず、絵馬や扁額がその人の何らかの節目の折などに奉納されることがあり、絵馬殿と呼ばれる奉納額などを掲げる建物も多くの神社で見る事ができます。

奈良県下で見られる地車彫刻を再利用したと思しき奉納額は、往古にその土地土地で曳行されていた地車の彫物を再利用し奉納されたと考えられ、今日地車の所有・曳行がおこなわれていなくとも、過去にその土地での地車の存在・曳行の有無をうかがい知ることのできる、地車文化遺産ではないかと、多くの地車研究者の間でも注目されています。

さて、そのブログで奉納額の存在を知った限りは、その奉納額がどこのどの神社に奉納されているかが気がかりなところ。
くしくもそのブログは、私とは二回り以上も年下の地車研究者(彼がそう呼ばれるのを嫌がっているかも知れませんが・・・・)が書いているブログ。
その彼と年明け早々に会う機会があり、その神社や所在地を聞き、早速現物を見に行ってきました。
訪れた場所は、奈良県下のとある山里のとある神社。
驚いたことにその場所は、これまで地車の存在や曳行されていたという話も聞いたことの無い、言わば地車の空白地帯。

長い石段を上ったところの潜り門の内側に、大きな古びた扁額とともに掲げられていました。

神功皇后と、誉田別命(後の応神天皇)を抱きかかえる武内宿禰の姿が刻まれているもので、三韓を治めるため身重の身体で出兵し、その帰路、筑紫の宇美で誉田別命を出産したという、地車彫刻の題材としてもよく用いられる、俗に『神功皇后、応神天皇を平産す』と呼ばれる場面。

彩色が施されていましたが、それぞれ縦およそ63cm、中央の横長のものが幅およそ80cm、左右は幅およそ50cmと、『堺型』地車のものと同じぐらいの大きさ。

奉納時に新たに彫り刻まれたものならば、わざわざ三分割する必要もなく、十中八九、地車の見送り三枚板を額装したものと思われます。
驚くべきは、奉納されたのが嘉永4年(1851)、今をさかのぼること165年前の江戸時代末期。

老朽化のために曳行されなくなり解体された地車のものであるならば、それよりも50年、いや100年も前に存在していた地車のものかも知れません。
私がこれまでに奈良県下で確認したものの多くが明治・大正期に奉納されたもので、おそらく過去に地車の曳行がおこなわれていたであろうと推測できる地域ばかり。
それも、地車空白地域とあらば、なおさらの驚き・・・・。
この周辺地域をはじめ、奈良県下にはまだまだ、解体した地車の彫物を再利用した奉納額がまだまだあるはず。
現在、だんじりが存在しない地域にまで範囲を広げ、今後も調査の必要があると思いながら、ひっそりと静まりかえった、某神社を後にしました。
では、今夜はこのへんで失礼します・・・・(ペコっ)。
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