節分は、あびこの観音さんへ・・・・!!
どもぉー、だん馬鹿です!
新春を迎えたと思ったら、あれよあれよという間に2月に突入!
そして明日2月3日は、『鬼は外、福は内』でおなじみの「節分」。
食い気が勝っている人は、「豆まき」よりも、巻寿司の丸かぶりの方かな・・・・(笑)。
さて、元々「節分」は季節が移り変わることの意味で、二十四節気のひとつ「立春」の前日のことを指します。
旧暦では一年のはじまりが立春からと考えられていたため、前年の邪気を払うための「追儺(ついな)」の行事をおこなう日とされ、「豆まき」もその行事のひとつ。
「追儺(ついな)」の行事は疫病をもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、日本では文武天皇の慶雲3年(706)に宮中でおこなわれたのが始まりとされ、『続日本書記』にも書かれています。
後世になり一般の神社やお寺でも節分の夜に豆まきが行われるようになり、江戸時代には宮中の行事ではなくなり、民間で広く行われるようになりました。
この季節、テレビでは大規模な神社やお寺で、お相撲さんや著名人が豆まきしている姿を目にしますが、今日でもお寺や神社でその年の年男や厄男が豆をまき、邪気を追い払い、一年の無病息災を願うとともに年中行事のひとつとして広くおこなわれています。
私の住む堺をはじめ、泉州北部から大阪市内などでは、節分ともなれば、近郷近在のものが大阪市住吉区にある吾彦山大聖観音寺(あびこさんたいしょうかんのんじ)、通称 あびこ観音に参詣するのが往古からの慣わし・・・・。

古来よりあらゆる人々の災難を防ぐ「厄除けの観音」として知られ、今も節分には、「あびこの観音さん詣いるんか?」なんていう会話が、街のあちこちで飛び交っています。
同寺では、例年2月3日の節分の前後に「節分厄除大法会」がおこなわれ、多くの参詣者で賑わっています。

そういう私も、昨日のお昼過ぎに多くの出店(露店)が立ち並び、多くの参詣者で賑わう「あびこの観音さん」に行ってきました。

もちろん、今年一年の健康と開運厄除けを願っての参拝。
しかし、この「あびこの観音さん」には、我々のような社寺・地車彫刻愛好者とっては少々興味をひかれる彫物師の手による彫物が施されているのです。
多くの参詣者が列を成す参詣路を進んで行くと見えてくるのが、こじんまりとした境内西側の山門。

その山門の蟇股には、表側に「開運厄除 観世音」と刻まれた宝珠をささげるように向き合う二人の『天女』の姿。


そして内側には威風堂々した『龍』の彫物が見事に彫り刻まれています。

また、木鼻にも見事な『唐獅子』が彫られています。

残念ながら、いずれの彫刻も目の細かい金網で保護されているため、ハッキリと見ることができませんが、これらの彫刻を細工したのが、大坂浪花彫刻界にその名を残す、大坂の名門《相野》一門の相野喜兵衛の作品。
蟇股の『龍』の裏面や木鼻の底面には、「彫物師 相野喜兵ヱ」の刻み銘も見て取れます。

地車彫刻研究のバイブルとも言える『大坂・浪花木彫史』には、相野喜兵衛永次は、天保11年(1841)に生まれ、明治45年(1912)没。
高野山の寺院に多くの作品を残しているようで、この「あびこ観音」の山門の彫刻は明治33年(1900)の作とのこと。
しかし、「あびこ観音」は明治14年(1881)の火災で多くの寺宝と共に焼失し、その後、明治23年(1890)に再建されていることから、山門もこの時に再建された可能性も・・・・(木彫史は誤り?)。
また、大きな本堂の懸魚や蟇股も作風こそ違え、《相野》一門のノミ跡に相通じる部分が感じられます。


我々地車ファンが愛して止まない「だんじり」にも、その作品を残しています。
それは、それは、それは・・・・、次回の『だんじり通信』で御紹介する予定・・・・(早ければ明日かな!?)。
では、今日の『だんじり通信』はこのへんでオシマイ。
次回も、乞う御期待・・・・!!
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