茶屋のだんぢり漫遊録

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相野喜兵衛さんの地車彫刻・・・・

どもぉー、だん馬鹿です!

今日2月3日は、節分。
昨日の『だん通』では、大阪府民の多くの方々が『あびこの観音さん』として慣れ親しみ、節分の日には多くの参詣者で賑わう大阪市住吉区の吾彦山大聖観音寺(あびこさんたいしょうかんのんじ)、通称 あびこ観音にある、いにしえの名工 相野嘉兵衛の彫物を紹介しました。

二回目の今日は、相野喜兵衛さんの手による地車彫刻を紹介しましょう。

近畿一円には、相野伊兵衛・相野徳兵衛など《相野》一門の手による彫刻が組み込まれた地車が、比較的多く存在しています。
しかし、相野喜兵衛の作品が組み込まれた地車は、非常にまれで、現在確認されているのは二台のみ。

まず一台目は、大阪市東成区 東今里・神路の『大阪型』地車。

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この地車の製作時期はわかっていませんが、明治18年(1885)に淀川の堤防決壊がもとで大阪市内に多大な被害をもたらせた「明治大洪水」の頃には、この地車が存在していたことが伝わっていることから、江戸末期から明治初期に製作されたと考えられています。

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製作大工も不明ですが、彫物は相野喜兵衛の手によるもので、小屋根の獅噛みに『相野喜兵衛永次』の名が刻まれていることが確認されています。

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獅噛みのほか、懸魚・虹梁・見送り三枚板など、全ての彫物が相野喜兵衛の手によるものかどうかは、喜兵衛の作品と断定できるものを見る機会がないため、区別がつきません。

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しかし、なかなか凄味のある彫刻の数々は必見の価値があるかと・・・・(今夏は久しぶりに見に行こ)。

さて、もう一台は、宝塚市小濱の地車。

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この地車は、江戸末期から明治初期に製作されたと思われる『宝塚型』地車。
こちらもまた、製作年・製作大工はわかっていませんが、当時の小濱にいた大工の手により造られたものと考えられています。
彫物はその作風から、大坂の《相野》一門の手によるものと考察されています。

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これまで、二度の大修理がおこなわれているようで、明治27年におこなわれた記録が地車の内部に書き記されています。

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この時、台木・勾(高)欄台などの彫物が、大阪市西區本田壹丁目拾四番屋敷に住んでいた彫物師 相野喜兵衛により新調されています。

近年では、平成9年に岸和田市の《植山工務店》において、大修理がおこなわれ、屋根・柱・台木などの屋形一式が新たにされ、新調同様の姿に生まれ変わっています。

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この時の修理で、修理以前同様の「龍宮図」題材ではありますが、相野喜兵衛の手により彫刻が施された台木は、残念ながら彫替えられ交換されています。
新しい台木は、滋賀県醒ヶ井の井尻信一・宣男 師の手によるものです。

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このほか、播州方面の太鼓台にも相野喜兵衛の手による狭間が組み込まれていると聞いていますが、現物を見たことがなく、機会があれば見に行ってみたいと思っています。

地車・太鼓台の中には、銘こそないにせよ、この相野喜兵衛の手による彫刻が組み込まれているはず。
また、高野山の寺院にも数多くの作品を残しているらしく、一度は探してみたいと思っている今日この頃・・・・。

ひょっとしたら、あなたの町の地車や寺院に、相野喜兵衛の作品があるやも知れません。

ほな、今日の『だん通』はこのへんでオシマイ。
失礼します・・・・(ペコっ)。


信濃屋お半だんじり通信
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