地車彫刻にその名を残す、あの名工の作品を見に行ってきたどぉー!
どもぉー、だん馬鹿です!
昨夜から降り出した雪は、夜遅くには一面の銀世界。

朝方には雨に変わり、子供達お待ちかねの雪遊びもいずこへ…・(残念)。
私の住む堺ではあまり雪が積もる事はありませんが、子供の頃から白い物がちらつけば何故かしら心はウキウキ。
それはオッサンになってしまった今日も変わらず、たまに見かけるおねえちゃんのパンチラにドキドキしてしまうのも、この幼少の頃の擦り込みのが原因なのでしょうか…(笑)。
さて、ここしばらく寒い日が続いていますが、去る2月6日(木)、小雪が降り出したお昼過ぎに岸和田市池尻町にある久米田寺を訪れてきました。

この久米田寺には、例年10月の体育の日の前の土曜・日曜日におこなわれる同市八木地区11台と山直地区田治米町・今木町の計13台の地車が、宮入りならぬ『行基参り』をおこなっています。

この『行基参り』は、久米田寺を開き、門前に水をたたえる大きな久米田池を開削した行基に感謝し、久米田池の水利の恩恵を受けてきた町の人々が地車を曳き、境内で行基を祀る行基堂にお礼参りするものです。
さてさて、この久米田寺の境内には、我々地車ファンがこよなく愛して止まない地車にその名を残す彫物師さんの作品が残されています。
その彫物師さんは、慶応2年(1866)に岸和田浜町の大工棟梁《玉傳》こと玉屋信吉の子として生まれ、昭和12年(1937)に没するまで、明治・大正・昭和の長きに渡り活躍した名工 玉井行陽(本名:熊吉)。
数多くの地車をこの世に送り出した名匠《絹屋》こと絹屋嘉七とは姻戚関係にあり、嘉七は熊吉を、これまた名工 二代目高松彦四郎に弟子入りさせたといいます。
熊吉は、左目が見えない隻眼でしたが、一人前になり、数多くの地車や神社仏閣にその名を残しています。
その玉井行陽が手掛けた彫物が、久米田寺の境内にある観音堂に施されています。

お堂の正面、屋根の軒下にある「龍」が彫られた蟇股が、玉井行陽の手によるもの。

裏面には、『彫工 忠岡村 玉井行陽』と刻まれ、この彫物が製作された当時は現在の泉北郡忠岡町に住み、作事していたことがうかがい知れます。

また、その両脇にある阿吽の「唐獅子」の木鼻も、行陽の作。


残念ながら、目の細かい金網が取り付けられているため、その素晴らしいノミ跡を目の当たりにすることはできませんが、その繊細で力強い作風を感じることができます。
行陽は、この久米田寺の観音堂をはじめ、泉州地域、信貴山や高野山などの神社仏閣にも、多くの作品を残しています。
行陽の手による地車彫刻は、明治期から昭和初期に製作された『岸和田型』地車に数多く見られますが、それらとは趣きも違った素晴らしい作品。
一度、このオフシーズン、皆さんも見に行かれてはいかがでしょうか・・・!
ほな、今日の『だんじり通信』はこのへんでオシマイ。
では、失礼します・・・・(ペコっ)。
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