この土呂幕こそ、平成25年の金メダルやぁー!!
どもぉー、だん馬鹿です!
ソチ冬季五輪が始まり、連日深夜まで、テレビに映し出される日本選手の活躍に一喜一憂している方も多いのでは・・・?
昨晩は、男子フィギュアスケートで若干19歳の羽生結弦選手が、日本男子初の金メダルを獲る大活躍。
私も、眠い目をこすりながらガッツポーズ。
もうしばらくは夜更かし隊の隊員となり、日本選手の不甲斐なさを嘆きつつも、テレビにくぎ付けになるであろう今日この頃のだん馬鹿さんなのです。
さて、昭和の後半から今日まで続く地車新調ブーム。
昨年も、岸和田市流木町、貝塚市堀、堺市鳳 野田、和泉市市辺町、泉北郡忠岡 道之町、富田林市東板持の6台の地車が産声を上げました。
各工務店・彫物師さん、町の方々らが三位一体となり、創意工夫・趣向を凝らし誕生した町の宝物・町の象徴・・・・。
入魂式・御披露目曳行がおこなわれ、町の方のみならず、私たち地車ファンも、各地車のすばらしさに目を見張ったのが昨日のことのよう。
私 だん馬鹿さんも、地車ファンの一人として、それら6台の地車を拝見させていただきました。
その中の一台に、久しぶりに私の目をくぎ付けにするほど素晴らしい彫物に出会う事ができました。
別に、地車・工務店・彫物・彫物師さんに優劣を付けようという訳ではありませんが、その作品にこそ、私自身、彫物師さんの創意工夫をひしひしと感じさせられたのです。
それは、昨年9月1日に入魂式がおこなわれた貝塚市堀の新調地車。

その地車の右土呂幕の彫物こそ、私の選ぶ昨年の『金メダル土呂幕』・・・・。
《木彫片山》片山 晃 師の手による作品で、題材は「頼朝公、鶴岡八幡宮放生会」。

この「鶴岡八幡宮放生会」は、文治3年(1187)8月15日に源頼朝によりおこなわれたもので、鎌倉の鶴岡八幡宮から千羽の鶴が放たれたという、想像を絶するスケールのもの。

平家を滅ぼし、全国60余州を平定し、征夷大将軍になり、鎌倉幕府を開いた、まさに頼朝の絶頂期。
その頃の鎌倉は、京の都に匹敵するほどの政治・文化の中心地。
その鶴岡八幡宮は鎌倉のシンボルであり、頼朝は自身の威勢を示すべく、この壮大な放生会をおこなったのかも知れません・・・・。
この頼朝がおこなった一大歴史スペクタクルとも言える放生会の様子は、江戸時代の錦絵の題材ともなり、庶民の目にも止まったことでしょう。


この「鶴岡八幡宮放生会」の題材は、これまで多くの『岸和田型』地車の「枡合い」、太鼓台の「狭間」などによく見られる、どちらかと云えばオーソドックスな図柄。
地車の「枡合い」に彫られるこの題材は、どちらかと云えばあっさりとしたもので、わずかなスペースに、空を見上げる頼朝と家来、籠から鶴を放つ人に、飛び去る数羽の鶴が彫られる程度。

しかし、堀の新調地車では前代未聞、『岸和田型』地車特有の最大のスペースである「平」の土呂幕に彫られたのですから、びっくり仰天。
私が数えただけでも、鶴の数は23羽。
千羽とまではいかないものの、過去最多であることに間違いなし。
「土呂幕」の題材と云えば、馬上の武者が打ち合う「合戦もの」が主流の今日において、あっさりとした題材を、巨大なスペースに違和感なく収めていたのですから、またびっくり!
今年に入り、片山 師の工房を訪れる機会があり、遅ればせながら「金メダルやぁー!」と感想を述べれば、「以前からこういうのしたかったんですが、冒険は冒険・・・。今回は、この地車の製作に大工棟梁としてその大任にあたった中司広数 匠の自町であったからこそ、させてもらえたのかも知れません」と謙虚に答えてくれました。
明治期に製作された『岸和田型』地車の中には、馬乗りを中心とした「合戦もの」の題材ではなく、馬上の武者が刻まれていない作品も見受けられます。
馬上の武者中心の「合戦もの」には派手さを感じさせられますが、人物中心のあっさりとした題材も、なかなかどうしてどうして・・・・。
そういう題材を、大きなスペースに刻み込むことこそ、その彫物師さんの感性、創意工夫、腕前が顕著に見られるのかも知れません。
願わくば「見送り」に、8匹の丸彫りされた龍が絡み合うような「素盞嗚尊、八岐大蛇退治」が施された地車を見てみたいものだなぁーなんていう馬鹿なことを考えながら、片山 師の工房をあとにしたのでした・・・・(笑)。
ほな、今日の『だん通』はこのへんで失礼します・・・・。
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