茶屋のだんぢり漫遊録

目次

不定期連載シリーズ『寺社仏閣』~井波別院『瑞泉寺』その1

え~、前回お知らせしました通り、不定期連載シリーズを始めて行きますョ!


前回お話させて頂いた事をざっと“おさらい”しますと…

一口に『だんじりの話題』と言っても多岐にわたる中から、いくつかのテーマを決めて、そのテーマに沿った話題を、『シリーズ化』してお届けする…

という趣旨のもと、いくつかのシリーズが生まれてくると思いますが…

まずは、『寺社仏閣の彫物』をテーマにしたシリーズからスタートします。


ではその記念すべき第1弾!

富山県・真宗大谷派
『井波別院 瑞泉寺』


をお届けします!




だんじり彫刻がお好きな方で、『井波』の地名を聞いたことの無い方は居られないかと思います。

そう、だんじり彫刻に『井波』の名を知らしめた第一人者と言えば、川原啓秀、その人でありましょう!


明治25年(1892年)に、この富山県井波に生まれた川原啓秀師は、井波の地で若くして彫師となり、大正の中頃に神戸に移り住み、以来、昭和の初め頃にかけて、数多くのだんじり彫刻を手掛けます。


福島区・野田恵美須神社の宮附地車をはじめ、泉大津市・上之町、他、神戸市東灘区などに、川原啓秀師の作品は数多く残されています。


その眼光鋭い獅噛みや鷲などに、多くのファンがハートを『鷲づかみ』されているのは周知の通り。



さて、そんなだんじり彫刻にも名を残す巨匠を生んだ、富山県『井波』とはどんな町かと言うと…

今や世界にその名を馳せる『彫刻の里』なのであります。


その『井波彫刻』の源流にあるもの、それが、『井波別院 瑞泉寺』であります。

井波の町を訪れると、まずは交差点に『彫刻の里』と刻まれたモニュメントが出迎えてくれます。


ここから瑞泉寺まで、約1km足らずの参道なのですが、この参道沿いに、彫刻屋さんが何軒も並んでいます。

正面をガラス張りにし、彫刻を実演している店もあります。
瑞泉寺への道すがら、彫刻を見学できる仕組みになっているのですね。

瑞泉寺と井波彫刻との繋がりの深さが随所に出ています。


他にも彫刻に関するギャラリーや土産物屋、さらに何でもない商店の看板でさえ彫刻が施されてあり、『彫刻の里』を地で行く町並が続きます。


そして…


参道を登りつめた先に、井波彫刻の祖・瑞泉寺が構えています。


井波彫刻はこの瑞泉寺によって産声を上げ、また瑞泉寺とともに発展を遂げてきました。


では、その歴史を紐解くべく、これより時間旅行に出かけましょう!




時は明徳元年(1390年)・・・


当時の都・京都の本願寺5代『綽如上人(しゃくにょしょうにん)』(←坊さんのお名前よ)が、後小松天皇の勅令により、井波の地に『本願寺の別院』として、瑞泉寺を建立します。

これが井波における瑞泉寺の始まりです。

これにどんな彫刻が施されていたかは定かではありません。

時代としてはまだ『応仁の乱』より前で、まだ大工彫刻という分野が確立される前と思われます。


その後、瑞泉寺はその歴史の中で、幾度となく火災に見舞われ、その都度再建されます。

中でも江戸時代の中期、宝暦12年(1762年)の大火による消失からの本堂再建には、京都の本願寺より『御用彫刻師』の前川三四郎が派遣され、作業に当たりました。

この時に井波の地元の大工・番匠屋七左衛門ら4人が、この前川三四郎につき従い彫刻の技法を習ったのが、井波彫刻の始まりとされています。


これ以降、その門下生が江戸時代末期にかけて寺社仏閣の彫刻などにその技法を競い、明治時代に入ってからは住宅の欄間彫刻などにも活路を広げ、『井波彫刻』は盤石の基盤を構築します。

昭和に入ると、本願寺系、または日光東照宮などの修復にも、その腕を奮いました。

だんじり彫刻にその名を馳せた川原啓秀を輩出した折、井波彫刻は全国に躍進する彫刻流派となっていたのです。


さてさて…


ではその井波彫刻の源流・瑞泉寺に今なお残される彫刻を、色々見ていきましょう。


まずは山門。



宝暦12年(1762年)の大火により本堂もろとも消失して後、本堂再建より遅れること40年あまり、文化6年(1809年)に完成したもので、現存する建造物の中では『式台門』に次いで古いものであります。


内側蟇股上部には中国の故事にまつわる仙人が彫られています。

琴高、伯牙、鉄拐、蝦蟇など。


それら各仙人たちの表情は実に柔和で、穏やかです。
寺院の入口にふさわしい、心の安らぎが表現されているかのよう・・・


そして内側正面には『水に龍』。

彫師は当時の井波の地元大工であった岩倉理八、番匠屋佐助、番匠屋清兵衛などの手による作品です。



さて境内、本堂へ行く前に、もう一つ、江戸時代の作品を見ておきましょう。

山門の右側にある『式台門』(勅使門)です。


こちらは寛政4年(1792年)の作で、小脇両側に、井波彫刻の元祖と言われる番匠屋七左衛門の手による『獅子の子落とし』があります。

現代で言う『レリーフ』と呼ばれる技法で施されたこちらの彫刻は、日本彫刻史の中でも傑作と呼ばれています。


これだけでも来た甲斐のある作品なのですが、奥に構える本堂、そして太子堂には、ワタクシを魅力する彫刻がまだまだ控えておりました!


・・・と、ここまででエライ長文になってしまいました…。

以下は次回のお楽しみ。
時代は明治、大正へと移ります。

今回は瑞泉寺の歴史と、江戸時代の彫刻に触れてみました。


ではまた…。

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