不定期連載シリーズ『寺社仏閣』~井波別院『瑞泉寺』…その2
まぃど信濃屋でございます~
日本列島、梅雨入りしましたね~

この梅雨が明ける頃には『大阪夏祭』の真っ只中なのでしょ~なぁ…
このブログでも、また大阪のだんじりネタを発信していく予定ですが、今回のネタは、前回の続きです!
不定期連載シリーズ『寺社仏閣』
富山県にある 『井波別院 瑞泉寺』 の第2回目をお届けしましょう。

前回は瑞泉寺の歴史から江戸時代の彫刻をチラッとご紹介しましたが…
今回は明治、大正、昭和へと、その移り変わりとともに、それぞれの時代を彩った彫刻美をご紹介してゆきます。
ん~、読者の皆様ついて来てくれてるかな?…
行きますよ…!
前回ご紹介した『山門』をくぐると、そこは瑞泉寺の敷地内。
正面にそびえる巨大な建物が、『本堂』 であります。

瑞泉寺は明徳元年(1390年)の創建以来、度々火災に見舞われ、その度に再建されてきましたが、宝暦12年(1762年)の大火後に再建された本堂も、明治12年(1879年)の火災によって再び消失。
現在の本堂は、明治18年(1885年)に再建されたものです。

その大きさは間口46m・奥行43m、畳の枚数450畳という巨大なもの。
この明治の本堂再建は、井波の工匠たちにとって、大きな飛躍となります。

江戸時代、幕府は寺社仏閣に関しても禁令をかけていたため、その造りや装飾は簡素でしたが、明治に入りその禁令がなくなった事で、工匠たちは思う存分の仕事が出来た様です。

本堂には、そうした工匠たち創意工夫がふんだんに盛り込まれ、随所に豪華で精巧な彫刻を組み込んでゆきました。

これらご紹介している本堂の彫刻は、みな撮影可能な物ばかりです。

実は本堂の内側、御本尊が据えられている伽藍の内部は、撮影禁止なのですが…
いわゆる『欄間』、瑞泉寺では『唐狭間』と呼ばれる部位に、それはそれは目を見張る彫刻が組み込まれています。
いずれも仏教的題材で、金箔が施されていますが、その大きさは畳6枚分に相当する巨大なものです。
しかし本堂そのものが広く、また『欄間』は高く見上げる位置にあるので、大きく見えないんですわ…!

正に『異空間』に迷い込んだ様な感覚ですョ…。
本堂の左に隣接する『太子堂』は、本堂より一回り小さい建物ですが、こちらの彫刻群も目を見張ります。

こちらも明治12年(1789年)の火災で消失しますが、本堂よりも再建が遅れ、大正7年(1911年)の完成となっています。

本堂よりも一つ時代をまたいだ事で、井波の工匠たちの技術はさらに向上し、こちら太子堂には、本堂を凌ぐ彫刻群が彫り込まれた様です。

こうして写真でお見せ出来るのは本堂と同じく屋根裏の『手挟み』や『蟇股』、『木鼻』といった部位の彫刻ばかりなのですが、本堂に比べて、明らかに精巧度は増していて、なおかつ豪快なノミ跡は健在なのが見て取れます。

また本堂と同じく、内部は撮影禁止でお見せ出来ないのが残念ですが、この内部の彫刻がまた圧倒されるのですわ!

こちら太子堂の『欄間』(唐狭間)はすべて『菊に孔雀』『菊に山鵲』の題材で、大きさは畳4枚分とか…。
金箔は施されておらず、ワタクシのような『だんじり彫刻』好きには、この方が見やすく、好みです。
本堂よりも低い位置にあるので、大きさを感じます。
まさに圧倒される感じ。
本堂、太子堂ともに、時間を忘れて見入ってしまう、正に『彫物好き』にとっては、“聖地”のような空間です。

さてさて、明治から大正と来て、最後は昭和で締めましょう。

こちらは昭和7年(1932年)に完成した『鐘楼堂』の木鼻に彫られた唐獅子。
本堂、太子堂にも木鼻には唐獅子が彫られていますが、この鐘楼堂の唐獅子は、ワタクシ的には別格にして“絶品”であります。

最初見た時には思わず息を呑んだ、そんな作品。

昭和の時代に入ると、『井波彫刻』は寺社彫刻の中でもいわゆる“ブランド化”をたどり、京都や築地の本願寺や日光東照宮などの修復にもその力を発揮します。
それと平行して住宅の欄間彫刻というジャンルも確立させ、昭和22年、『井波彫刻共同組合』を結成。
昭和50年には当時の通産省から伝統工芸品の指定を受け、現在は『日展作家』も多く排出し、『世界の井波』というブランドを確立させています。
平成5年には『井波彫刻総合会館』も完成し、現在活躍する工芸師の作品を見ることが出来ます。

さぁ、『瑞泉寺』を中心に、彫刻の里として発展を遂げてきた井波、いかがでしたか?
寺社仏閣にはまだまだ目を見張る彫刻は数多くあるので、また時期を見てこのシリーズでご紹介しますね!
次回は久々に『だんじりネタ』が戻ってきますので、お楽しみに!
2回にわたって『瑞泉寺』、お届けしました…。
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