『石川型』俄だんじりを鑑賞す…《前編》
先日とあるだんじり関連の人と会い、泉州のとあるお店であれやこれやお話している時に、ふと『石川型』の話になったんですよ。

『上地車』の中でも、『石川型』って、独特よね?・・・っていう話でちょっと盛り上がり、あーでもない、こーでもないと議論していました。
議論…?
うーん、うだ話・・・
そもそも『上地車』と言えど、いわゆる『岸和田型』と呼ばれる『下地車』と区別して、『下地車』に当てはまらなければすべて『上地車』に分類されるんで、元々その型分けは多岐にわたります。

その中でも、例えば『大阪型』や『住吉型』、『堺型』といった多数派は、細かい点で違いはあれど、だいたいみんな似通っておるんです。

『神戸型』とて、腰から下の構造は特異ですが、上半身は他の『上地車』と大差はありません。

さらに『北河内型』(讃良型)にしても、その大きさが巨大であることを除けば、構造そのものは大きく変わりません。

そうして見てくると、南河内一帯に数多く分布する『石川型』は、他の『上地車』と比べると一目瞭然!
明らかに特異な構造であると言えます。

この『石川型』、いわゆる『俄だんじり』の発祥をちょいと紐解くと、この形式のだんじりは、江戸期に富田林で活躍した大工組、 『新堂組』の流れを汲む大工により考案、製作されたものであると考えられ、現存するものの多くが幕末期から明治期にかけて製作されたものであります。
先述した『大阪型』や『住吉型』、『堺型』などの『上地車』とは明らかに一線を画するは、以下の通り。

大屋根と小屋根の段差が大きく、その下を大きな枡組が受けているのは『下地車』的な要素であり、急勾配で丸みを帯びた破風形に、8本の通し柱や前に大きくせり出した俄舞台などは、正にオリジナル的な要素であると言えます。

つまり、江戸期から明治期に大阪を中心に活躍した『柳屋』や『大佐』といった大工とは全く別の流れで考案された形態・・・それが『石川型』と言えるのではないでしょうか?
現在の祭礼では、そのせり出した俄舞台にたくさんの青年団が乗り込み、様々なり『曳き唄』を唄いながら曳くのが定番となった南河内のだんじり祭ですが、かつては『俄芝居』の奉納こそが祭の最も大切な行事であったようで、『石川型』(俄だんじり)は、正にその『俄』を演じることを最大限に考えて作り出された形態なのですね。

さて今回ここまで写真で紹介してきたのは、千早赤阪村の水分のだんじりであります。
水分のだんじりは、11月2日(日)に、修理のため岸和田の吉為工務店に搬入されました。

これはその抜魂式の時の模様です。
とゆー訳で次回は、この水分のだんじりの彫物を、じっくり鑑賞してみたいと思います。
今回はここまで。
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