「捕鳥部萬(ととりべのよろず)と愛犬マシロ」ってなんだ・・・・?
9月28日(日)、岸和田市神須屋町の新調地車が完成し、入魂式・御披露目曳行がおこなわれました。本サイト『だんじり』をご覧の皆さんの中にも見に行かれた方が多いのでは・・・・。
さて先日、神須屋町の新調地車の記念誌の撮影がおこなわれているとの情報を得た「だん馬鹿」さんは、「こりゃぁ~行かにゃなるまい」と車を走らせました

実は、少々気になっていたことがあったからなのです。それは同町の地車の「番持ち」に彫られている『捕鳥部萬(ととりべのよろず)と愛犬マシロ』だったのです。
入魂式当日、配布された彫物表の表紙にもなっていた、神話の衣装を身につけ犬の頭をなでる人物とその犬。何の話しなのかと、思い悩んでいたのですが、ようやく謎が解けました・・・・。
話しは、こうである・・・・。
6世紀の後半、頃は聖徳太子の時代。百済の国から伝来した仏教を崇敬するか排斥するかで争っていた蘇我氏と物部氏。
蘇我馬子(そがのうまこ)らの軍勢は、大和の尾根を越え、物部守屋(もののべのもりや)のとりでを襲った。たちまち河内平野は血の海と化し、守屋の軍勢は壊滅状態と相成った。
多くの兵が倒れる中、難波(なにわ)の館を守る資人(つかいびと)・捕鳥部萬(ととりべのよろず)が生き残った。彼は、勇士として広く知られていたが、「もはやこれまで」と部下たちを解き放ったのち、妻の住む茅渟県(ちぬのあがた)有真香邑(ありまかむら)【現 岸和田市八田町あたり】に向かった。
妻との別れの一夜を過ごした萬は、追っ手の軍勢を迎え撃つべく、単身、里山へ入った。里山を取り囲んだ蘇我の軍勢は、萬の放つ矢に多く倒れた。しかし、愛犬マシロとともに縦横にかけ廻った萬も、満身に傷を負い、ついに自害して果てた。官(政府)は符(ふみ)を下して、萬の死体を八段(やきだ)に斬り、八つの国にさらした。

話はこれだけで終わらない・・・・。
愛犬馬マシロが主人の死後も、さらし場から離れず、ついにその首をくわえて古塚(ふるづか)に収め、萬の亡骸を守るべく、傍らに伏せたまま饑えて死んだ。
この話しを知った官は、再び符(ふみ)を下して、これをいとおしみ、萬の屍体を集め、葬ることを命じた。
かつて彼の愛した妻と村の者たちは、もくもくと萬とマシロの墓をならべ造ったという。
彫物表には「日本書記」からの題材とも記され、実際に「日本書記」にも載っている話しであるそうです。
聞くところによると、この話しは岸和田市内では有名な話しで、小学校などの教材にもなっているとか。また、「岸和田のむかし話」として、岸和田市の公報やホームページでも紹介されています。
近年、地元にまつわる伝説や逸話を新調地車の彫刻に取り入れる町が多く見られます。
神須屋町も、地元に伝わる昔話を彫物の題材に取り入れていたのでした。
今も、神須屋町の地車小屋の南方の山ふところ、NTTのアンテナの在る所とその東方の大イチョウの付近には、捕鳥部萬と愛犬マシロの墓があるそうです。
神須屋町地車の詳細を見る
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いろいろとお話しをしていただきました神須屋町の皆さん、ありがとうございました。
厚く御礼申し上げます・・・・。
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