かつては『おんば車』と呼ばれた名だんじり 《前編》

2月14日(日)のバレンタインデーは、ワタクシ的には朝から晩まで盛りだくさんな1日でした。
まず朝からは岸和田市・南上町の抜魂式~工務店搬入までを見届け、日中はとある所を挟んで夜は、当サイトの『祭みてある記』のための取材で、愛知県のとある場所まで出向いておりました。

で、今回お話するのは、その『日中の、とある所』についてなのですが・・・
実は東大阪市・長田東のだんじりを拝見させて頂いてたんです。

ワタクシ、このだんじりとの出会いは、ここ長田東へとやって来る前の活躍地・生野区は巽地区の四條のだんじり時代でありまして、小学校3年生ぐらいの時に、『生野まつり』にてお初にお目にかかっておりますが・・・

↑この写真は昭和61年頃。信濃屋少年はこれよりもう少し前にこのだんじりと出会っている…
細部の彫物までじっくり見せて頂く機会は得られないまま、今日まで過ごしておりました。
この姿形、今でも個人的に大好きな1台なのでありますが・・・


まずはこのだんじりの、その数奇な経歴を遡ってみたいと思います。
製作年代は明治の初期頃とされ、大工は不詳。
彫物は《辻友》辻田友次郎、《彫寅》二代目・頓名兼光(とんなけんこう)の手によるものとされています。

さてこのだんじりが、元々どこの村が新調したものであるか、はたまたどこかの『仕入れだんじり』だったのか、それを確証づけるものは今のところありません。
一説には、現在の阿倍野区・天王寺町北・南に位置する『高松村』が所有していたとも言われており、その出自はハッキリしません。

↑向こうにあべのハルカスを望む阿倍野区・高松交差点
やがて大正8年頃に、現在の平野区・野堂町南組(当時はまだ野堂田畑町かな?)が、明治12年頃に新調しただんじりを泉大津の西之町へと売却し、代わりにこのだんじりを購入するのですが・・・
同じ『平野郷』の周辺各町のだんじりに比べたら一回り小ぶりであった事から、他町から『おんば車』(乳母車)と呼ばれてしまいます。
これに耐えられなかった若衆は、泉大津の西之町へと売却しただんじりを買い戻すよう頼み込み、このだんじりは大正10年に、現在の生野区の四條へと売却されるのです。

↑平成5年頃
明治初期頃の四條は『渋川郡四條村』であり、明治29年に『中河内郡』となり、昭和30年に現在の大阪市生野区に編入されています。
このだんじりはその間、四條のだんじりとして活躍し、長年にわたり四條の土地で愛されてきた歴史があります。

平成16年、四條の現だんじり新調に伴い、ここ長田東が購入し、現在に至ります。

長田東では先代だんじりがいわゆる『子供だんじり』的なもので、そこから本格的なだんじりへと移行した事で、より組織の充実化を図り、子供達にもお囃子の徹底指導を施すなど、新しい長田東の祭礼へと変化を遂げてきました。

そんな長田東にとって、宝物となったこのだんじりでありますが、さらに奥深く突っ込んだお話を、次回に繰り広げたいと思っております。
今回はここまでにします。
(次回に続く)
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