茶屋のだんぢり漫遊録

目次

パレード本番は見れなかった…でも胸に残る満足感とは?《後編》





4月16日(土)・・・


奈良県橿原市の『橿原神宮』




橿原市主催の『神武祭』の最後を飾る『参道パレード』に参加するべく、十市町・今井町のだんじりが 、次々と運び込まれて来る様子を拝見していたワタクシ。


十市町、今井町あわせて『上地車の聖地』と呼ばれる、その真意を紐解いてゆきたいと思います。



この日、ワタクシが現地に到着した時には、すでに3台ほどのだんじりが到着済み。




その3台のだんじりだけを見ても、すでに姿形が三者三様で、それぞれから強烈な個性がにじみ出ています。



例えばこの上ケ田南垣内(あがたみなみがいと)のだんじり。



『出人形式板勾欄住吉型』と呼ばれる形式のだんじり。



柱巻の龍虎からその前の板勾欄にかけて、非常に見栄えのするだんじりです。


その隣の北之辻垣内のだんじりは、我々だんじり好きの間では『典型的な大佐だんじり』と呼ばれる、『住吉型』の見本のようなだんじり。




そしてその次に運ばれてきた市場東垣内のだんじりは、『板勾欄式の堺型』で、腰廻りに8本の柱を持つ(その内6本が通し柱)、いわゆる『箱だんじり』と呼ばれる形式のものなのですが、その『板勾欄』が、出人形式ではなく、何と言うか、本当の『板勾欄』ていう感じのね。




続いて到着したのは市場西垣内のだんじりで、こちらも『堺型』(箱だんじり)なのですが、板勾欄ではなく通常の『擬宝珠勾欄』の形式。




そしてその次に到着したのは南垣内のだんじりは、これはワタクシが個人的に好みの『大阪型』のだんじりです。



後ろに『摺り出し』が付けられている事で『住吉型』にも準ずるのですが、ベースは『大阪型』です。





と・・・ここまで各だんじりを見てきて、もうお気づきの事と思いますが、この橿原市の十市町が

『上地車の聖地』

と呼ばれる理由・・・



そうです。

江戸末期から明治にかけて製作された、様々な形式の『上地車』が、今なお原型に近い形で現存しているから・・・なのですね。


そしていよいよこの後、我々が最も見たかった、お目当てのだんじりが運ばれて来るのであります。


それがこちら!



中殿垣内(なかどのがいと)のだんじり。


台木の前方が船の舳先のようになっており、いわゆる『船だんじり』から現在の一般的な『上地車』への過渡期を表すようなフォルム。



その上には大ぶりな朱雀の彫物が配置され・・・

朱雀?・・・う~ん、どちらかと言えば、飛龍かな?・・・


さらに小屋根は左右(平)の面に唐破風が細工され、その下の腰廻りは、見送り三枚板の下に縁葛ではなく、屋根の軒が細工されているという、なんとも個性的で摩訶不思議な構造のだんじりです。



その三枚板正面の彫物を見ると、彫られている人物が『彫師 相野徳兵衛直信』と書かれた垂れ幕を持っているという、遊び心に富んだ作品。





実はワタクシ、今から約20余年前の・・・平成2年だったか3年だったか(記憶が曖昧、記録がみつからず)に行われた、『橿原神宮百年祭』という催しの時に、これらのだんじりを拝見しておるのですが・・・



なんせ当時のワタクシなんぞ鼻垂れ小僧で、この中殿垣内のだんじりを見ても、
『ほぉ~珍しい形のだんじりやなぁ』
ぐらいにしか思っておらず、その後だんじりに熱心になってから、このだんじりの評判を聞くにつけ、今一度拝見せねばなるまいと機会を伺っておったのでございます!



その後に運ばれてきた今井町の2台のだんじりも、それはそれは会いたかっただんじり。





思えば長々と書いてきているので。そろそろまとめに入らねばなりません。



この日の朝イチにワタクシが到着した時、すでに一番最初に搬入されただんじりは、すでに乳白色のシートをすっぽり被せられ、その姿見や彫物を拝見するには至りませんでした。




要は宿題が残ったのですな!



それを果たすべく、ワタクシは翌日の久米田池のイベントの後、再び橿原神宮へと向かったのであります。

なので、パレードは見れなくても良かったのです。

ワタクシはターゲットはただ一つ!
こちらのだんじりでございます!



上ケ田北垣内(あがたきたがいと)のだんじり。


これが前の日、乳白色のシートをかけられていただんじりでござんす。


ここ十市町および今井町ではもっとも数多く残る形態である『堺型』(箱だんじり)でありますが、その獅噛みは辻田友次郎のもので、ワタクシ好みのお顔。





これで念願叶いまして、橿原市の十市町および今井町のだんじり9台、すべて拝見できました。

パレード見ずとも満足感、ここに成就でございます。



こうした『堺型』・『住吉型』のだんじりが、なぜ遠く離れた橿原の地に、こうして数多く残るのか?・・・




かつて明治の頃には、おそらく堺市内において、住吉大社の夏の『お祓い祭』で、華々しく曳かれていただんじりでありましょう。

それが明治29年、だんじり界の歴史を変えた忌まわしき出来事・・・そう『堺だんじり騒動』であります。

それ以降、堺市内やその近辺ではだんじり曳行が禁止され、無数のだんじりが流出してゆく事になるのですが、これら十市町および今井町のだんじりも、そうした流れによってこの地へと嫁いで来たのでしょう。

その出自がハッキリしないのが残念なのですが、それが判明すれば、そこから当時の堺の様子を知る材料にもなり得ます。




そうした歴史への遠いロマンも感じながら、『神武祭』の橿原を後にしました。


信濃屋お半悠遊!だんじり録
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