橿原市今井町…会いたかった2台のだんじり…《後編》

前回より引き続き、橿原市は今井町の2台のだんじりについて触れております。

今月前半はブログの更新が少なかったですからね!
今週はダダダッと更新しますよ。
4月17日(日)・・・橿原市の主催で行われた橿原神宮の『神武祭』に、橿原市内から9台のだんじりが参加しましたが、その中の2台、今井町西と南のだんじりを拝見中です。

前回は今井町西のだんじりにスポットを当てましたが、今回はもう1台の方、今井町南のだんじりにスポットを当ててみたいと思います。
今回『神武祭』に参加する9台のだんじりの内、最後の最後に搬入されて来たのが今井町南のだんじり。

製作年代、大工ともに不詳とされているのですが、土呂幕の彫物は片側3面、土呂幕部分の柱が8本あり、その内6本が通し柱となっているので、構造としては『堺型』、いわゆる『箱だんじり』に分類されます。

彫師は《彫竹》西川竹次郎とも言われており、土呂幕の裏側にその銘があるとも聞いておりますが、確認は致しておりません。
西川竹次郎という彫師は、だんじり彫刻ではあまりその名を聞くことはありませんが、《彫又》二代目・西岡又兵衛の弟子である初代《彫竹》西川武蔵の跡目息子で、明治3年の生まれだそうです。

という訳で、製作年代のハッキリしないこのだんじりですが、彫師が西川竹次郎であるとするならば、古くとも明治末期、もしかしたら大正~昭和初期にかけて製作されたもの?・・・

でもそんな時代、堺でだんじりは製作されていたのでしょうか?・・・
この二代目《彫竹》西川竹次郎は、だんじり彫刻にその作品は少ないですが、神社仏閣などには多大な作品を残しておられます。

そしてこの今井町南のだんじりと言えば、何と言っても一番目を引くのは、この正面に据えられた巨大な金の龍であります。

モチロン、構造として組み込まれている部材ではなく、後付けで装飾されているものなのですが、その存在感は圧倒的。

近寄って細部を拝見するに、れっきとした木彫刻であり、金の彩色が施されているのでした。

一本の木から製作されたものかどうかは不明です。
そして見送り三枚板に目を移すと、富士の巻狩りが施され、特にこの仁田四郎の猪退治などは、見事な構図。

バックに富士山と源頼朝を配置し、手前の板勾欄の雑兵と合わせて、一枚の絵として構成されています。
さらに小屋根の『鬼板』部分と拝懸魚とで一対となる『昇り龍、下り龍』など、なかなか凝った細工がなされています。

しかし、土呂幕部分の彫り物など見比べるに、何やら雰囲気の違いを感じます。

脇障子などを見ても、何か雰囲気が違う・・・

このだんじり、古めかしい部材と斬新な部材とが混在していて、もしや、元々の製作年代は、もっと古いのではないのか?・・・などと憶測を巡らせてしまうのです。

《彫竹》が手を加えたのは、新調当時よりもっと後の年代?・・・
いやいやいやいや!・・・推察は推察の域を出ませんので、あまりあれこれ書くのは控えておきましょう。
まぁしかし、これもまた難解なだんじりというか、時間をかけて眺めていても飽きないだんじりであります。

まだまだ研究の余地あり、ワタクシ自身も、まだまだ学習の余地ありといったところでしょう。
今回は、今井町の2台のだんじりにスポットを当ててあれこれ書いてきましたが、なかなか興味深いものでありました。
まだまだ書きたいことは山の如し。
次回はどのだんじりにスポットを当ててみましょうかね~?
では今回はここまで・・・
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