千弐百年目の夏に星が降る

あぁ、7月が終わってゆく・・・
平野の試験曳きで幕開けしたと思った7月が、数々の物語を駆け抜けて、あっという間に終わりを迎えようとしている・・・
そんな『夏祭たけなわ』だったと7月に行われた稀少な『だんじり行事』の中から、今回はこちらの話題をお届けしましょう。
7月24日(日)
世間では『天神祭』宵宮です。
しかしワタクシが向かったのは交野市の星田。

星田妙見宮の、鎮座千弐百年記念祭に、星田東のだんじりが曳行されました。

とはいえ、ワタクシが現地に到着したのはちょうどお昼頃で、だんじりは星田妙見宮の麓の交差点に到着したばかりというタイミングでした。
ここで2時間ばかり留め置きということで、曳行している場面は拝見出来なかったのですが、以前から見ておきたかった星田のだんじりと初遭遇です。

ワタクシ自身、ホンマに北河内のだんじりとは縁が浅く、先代ブロガー『だん馬鹿さん』に遅れを取っているのが北河内のだんじりに対する造詣です。
この星田について、歴史やらなんやら、触れたいことは山ほどあるのですが、まだまだ勉強不足ゆえ、ひとまず今回は、だんじり本体について触れておきましょ。

一部の情報によれば、東西両方のだんじりが曳行されるとも云われていたのですが、実際に曳行されたのはこちら、星田東のだんじり。

天保4年の作で、星田西のだんじりは天保5年の作。
『天保だんじり』と言うだけで歴史とロマンと感じずにはおれないのであります。

大工は不詳とされていますが、一説には、天満の大工で別名《だんじり吉兵衛》の異名をとった《柳吉兵衛》が関わっているとも云われていますが、確証はナシ。
『北河内型』の中でも、四條畷や大東市に多く存在する『讃良型』と区別して、『交野型』と呼ばれており、交野市内に現存するだんじりは一応すべて『交野型』として分類されており、隣接する枚方市や寝屋川市に一部、同様な形式のだんじりが見られます。

中でもここ、星田に現存する東と西のだんじりは、特に飾り金具が豪華であり、かつてはそれぞれの村がその豪華さを競っていたという歴史がある様です。

さてそんなだんじり本体に目をやると、スラリと背の高い姿見に、『讃良型』とは明らかに違う屋根の形状、そして腰組までの構造。
そして狭い軒先の間を通れる様にと左右『折り屋根式』の細工がなされてあるのも、交野型の特徴と言えるでしょう。

彫師は《相野》一門の中でも、その隆盛の礎を築いたとされる相野藤七とされ、屋根廻りを中心に目を見張る作品が散りばめられています。

見送り部分は三面とも『火燈窓』になっており、窓の内側に施されている幕には七福神が顔を出すなど、どこを切り取っても興味が尽きません。

なおかつ、天保時代にこれだけの作品が作られていた事への驚きも含め、まだまだ学習の余地ある星田の地を後にしました。

ここ星田では、近年になり地域の曳行が続けて行われていますが、明治35年(1902年)~平成22年(2010年)までの100年以上にわたり、地域の曳行は中断されていて、境内での飾り付け及び境内の中のみ曳き回すという時代を過ごしてきました。
近年になり、このだんじりへの地域の関心も高まっている様で、さらなる活躍の場が増えるやも知れません。

こうした貴重な機会に星田のだんじりに触れ、やっぱり西も見てみたいし、ここ星田という土地の、伝説に満ちあふれた歴史にも興味がわいて来ましたね。

またこうした機会に、星田については触れて行きたいと思っとりまっする。
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