茶屋のだんぢり漫遊録

目次

時計の針をちょいと戻して…麻生中だんじり最後の勇姿




ちょいとブログの更新が空いてしまってゴメンナサイよ!

バタバタしてる間に一週間をまたいでしまっておりました。


その間に地震なども頻発しておりましてね~、大変な時期ではありますが、ブログを再開して参りましょう。



前回はまだご紹介していなかった入魂式を二つご紹介しましたが、今回は、まだご紹介していない昇魂式をお届けいたします。


こちら!



貝塚市麻生中のだんじり。


永年にわたり、貝塚市・麻生郷地区の祭礼にて曳行されて来ましたが、来年の新調だんじり完成に伴い、今年をもって現役を引退することとなり、10月23日(日)にお別れ曳行ならびに昇魂式が執り行われました。

今回はそのお別れ曳行の模様を写真で振り返りながら、このだんじりの歴史を紐解いてゆきたいと思います。




明治34年頃に、現在の岸和田市上町、当時まだ『小寺』と『池ノ尻』という字だった時代に、『池ノ尻』が新調したものであります。




大工は《大源》の屋号を持つ奥辰之助と、その分家で《治作》の屋号を持つ奥治作

《大源》が居を構えていたのが池ノ尻で、我が町のだんじりを製作した事になります。

この《大源》の流れが、のちの大正11年に、五軒屋町先代だんじりを生み出す《大久》奥久吉棟梁へと繋がって行くのかは資料がなくて不明。




彫師は名匠・高松彦四郎の弟子で、安田卯ノ丸と兄弟弟子にあたる宮地弥津計


このだんじりは昭和3年頃に作才の古物商《氏原》氏に売却され、昭和初期に麻生中へと購入されたものと言われています。




昭和の40年代に入り、泉州と言わず堺と言わず、どこの地域も祭礼が下火の時代、麻生中のだんじりもしばらく曳かれない時期がありましたが、貝塚の麻生中地区の祭礼が、現在の『たこぼうずもなか』の交差点を中心に南海・貝塚駅前を廻る周回コースで活気を取り戻した昭和の50年代にはいり、ようやく麻生中でもだんじり曳行復活の機運となり、《植山工務店》での修復を経て昭和60年、実に16年ぶりの曳行復活を果たしました。




麻生中が一旦だんじりの曳行を中断する前、おそらく貝塚市麻生郷地区の祭礼は、現在のような周回コースではなかったと思われます。

貝塚駅から遠い半田や麻生中は自町内と、当時国鉄だった東貝塚駅の近辺を曳行していたと思われ、半田が現在の通称『たこぼうず』を目指して曳行する様になったのも、また麻生中にとっては隣町でも、地区としては北近義地区の石才が麻生郷地区に加えられたのも、麻生中が曳行を休止している時期の事だったと思われます。




こうした事が、麻生中の曳行復活に影響を与えたのではないでしょうか。


いずれにせよ、昭和60年の曳行復活以来、麻生中は現在の周回コースからは一番遠方の町ながらも、麻生郷地区祭礼の1台として押しも押されもせぬ存在となり、現在まで曳行されてきました。




昇魂式当日は、和泉市の和気町、泉大津市の豊中町も同じく昇魂式を迎えた日でした。

朝から晴天に恵まれ、たくさんの見物人に追いかけられながら午前7時にお別れ曳行に出発。



途中、石才の交差点にて最後の遣り廻しも披露され、曳き手、見物人、両方の胸に一抹の寂しさもこみ上げる中、お別れ曳行も無事終了。

あらためて町内にて昇魂式が執り行われました。




永年にわたり活躍してきた麻生中のだんじりに、あらためてご苦労さま、ありがとうの言葉を贈りたいと思います。


さて待望の新調だんじりは現在、《井上工務店》にて製作中
彫師は《木下彫刻工芸》が担当しています。


来年9月にお目見えする予定の新調だんじりも、大いに楽しみであります。


信濃屋お半悠遊!だんじり録
<<前の記事 次の記事>>