茶屋のだんぢり漫遊録

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物のはじまり・・・・

今日の「だん通」は、当サイトのユーザーの方から届いた質問にお答えしようと思います。

濱寺元町のYOUHEIさんから、「だんじりは岸和田が最初にだんじり祭りをやり始めたんですか?」との質問をいただきました。

答えは、「ちがいます」、チャンチャン・・・・以上。
簡単に答えれば、これで終わりなのですが、今日は何か気分もいいので、だん馬鹿さんが懇切丁寧にお答えしましょう・・・・。

「岸和田だんじり祭」の起源は、元禄16年(1703)に、時の岸和田藩主 岡部長泰 公が城内三の丸に「お稲荷さん」を勧進し、五穀豊穣を祈願した『稲荷祭』がその始まりと伝えられています。その稲荷祭に初めて本格的な地車が登場するのが、天明5年(1785)に岸和田北町の世話人 油屋治兵衛という人が、泉大津より古地車を借りてきて(買ってきたとの説も・・・・)曳こうとしたが、大きすぎて城門を通れず、急遽一晩がかりで、杉丸太の柱に仕替えて屋根を下げ曳行した。これが今のだんじりの原形であり、曳行の始めであると考えられています。翌天明6年には北町が地車を新造し、この地車が『岸和田型』地車の新調第一号ではないかと考えられています。それまでの文献・古文書などにも『引壇尻』・『小だんじり・引だんじり・荷いだんじり』・『かこひ壇尻』などの言葉が見受けられますが、木箱に車を付けた簡素な箱車、もしくは運搬用の車輪を付けた長持と推測されています。

貝塚市感田神社の記録には、「元文6年(1741)に北之町よりだんじり(太鼓台)は出たが、堺より引きだんじりは借りてこなかった」とあり、堺では元文6年(1741)以前から地車が存在していたことがわかります。
また、大阪市北区の大阪天満宮の記録には、安永9年(1780)の天神祭には大阪市中から84台もの地車が宮入したと記されています。

したがって、今日のような本格的なだんじりが岸和田で曳行され始める前に、泉大津・堺・大阪市内などでは地車の曳行が盛んにおこなわれていたことが伺い知れます。

さて、だんじりの曳行がどこから始まったかとなると、多くの地車研究家の間でも諸説あるようです。羽曳野市誉田八幡宮・大阪天満・淡路、堺などなど、人によってとらえ方も様々です。文献などの資料も少なく、断定するには無理があると思いますが、私、「泉州堺のだんじり馬鹿」としては、『堺がだんじり発祥の地』と考えています。理由は簡単、昔から「物のはじまり、なんでも堺」って言うでしょ・・・・。
信濃屋お半だんじり通信
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