鶴見区の『名地車』といえば・・・

『名地車』の呼び声高いだんじりは各地にたくさんありますが、大阪市鶴見区ある『名地車』と言えば、まず最初に思い浮かぶのはやはりこのだんじりではないでしょうか?

鶴見区の東の端、今津のだんじりです。
氏神・比枝神社の境内に小屋があり、秋の祭礼をメインに現在は夏の祭礼、そして11月の『だんじり in 大阪城』にも毎年参加しており、今や地元の人たちのみならず、多くのだんじり好きの目にも馴染みのあるだんじりだと思います。

この度、今津の青年団の方々のご協力を得まして、この今津のだんじりをじっくり拝見させて頂く機会を得ました。
まずはその姿見から拝見です。

『大阪型』の中でもひときわ均整の取れた美しい姿見と評判のだんじり、その名声は、ワタクシが子供の頃から耳に入っておりました。

明治24年に製作されただんじりで、大工は石川辰次郎、脇棟梁に樫木栄三郎となっています。

堺市は深井東町の先々代のだんじりで、深井東町が新調したと云われています。
が・・・
石川辰次郎について調べてみましたが詳しいことは分からず、一説によれば、現在の東大阪の鴻池あたりで製作されたものであるとも云われています。
というのも、まぁご覧の通り純然たる『大阪型』のだんじりであり、『堺型』や『住吉型』の要素があまりないのが引っかかるのであります。

通し柱は化粧枡を持たずそのまま桁に直結していて、虹梁の端っこに、化粧枡を埋めた跡?・・・のような部分があります。

もうすぐサービスを終了する姉妹サイト『だんじりeo SE』のブログで今津のだんじりについて書いた時にも、ワタクシはそれを疑問に思い、あまりに肉厚のあ虹梁を見て、元々この形なのか、それとも元は枡合と虹梁に分かれていたのを、いつぞやの修復でこの形式に改めたのか、どっちなんやろなぁ?・・・て思ったのですが・・・
元々この細工なのではないか?・・・というのが、今回あらためてこのだんじりを拝見したワタクシの見解なんですけどねぇ。

それに明治期の鴻池界隈は、その財閥の財力もあり非常に栄えていたとされ、いくつかのだんじりを製作していたという説があり、石川辰次郎も、そうした大工の一人ではないかと云われています。
また追い追いそうした部分の話も明らかになる日が来るやも知れません。

さて、いよいよ彫師になるのですが・・・
彫師は《彫又》一門・・・というのがこのだんじりに対する永年の見立てでありましたが・・・

モチロン《彫又》一門の手もありますが、もっと複数の一門の手が入っているように思えるんですな。

昭和60年に岸和田の《吉為工務店》により大修復がなされ、また平成20年にも再度修復がなされています。
正面の拝懸魚は、昭和60年の修復の時に彫り替えられているものでしょうか?

前からの姿も美しいだんじりですが、後ろへ回るとさらに目を引く姿見となっています。

特に見送り三枚板の正面は、このだんじり一番の彫物と言える、『佐久間玄蕃の秀吉本陣乱入』の場面。

その上の車板には『天の岩戸』。

その上の拝懸魚も思わず食いついて見てしまうその見応え。

この見送り三枚板に関しては、どうも《彫又》ではなく、《辻田》一門の手による作品ではないのか?・・・というのが、今回このだんじりが《彫又》だけの手によるものではなさそうだという結論に至るのです。

土呂幕あたりはどうですかね?
これは平敦盛を呼び戻す熊谷次郎直実。

《彫又》っぽいですかね?
まぁワタクシ一人でそこまで特定はしきれません。
また興味のおありの方は、一度ご覧になって頂くと良いでしょう。

では最後にこの今津の歴史などを紐解いておきましょう。
今津は戦前は枝村7町がそれぞれだんじりを保有していたそうですが、戦後に解体。
一方、堺市の深井東町では布団太鼓の新調に伴い、だんじりを売却するとの事で今津が購入しました。

また現在の今津は大阪市鶴見区ですが、旧國は『摂津』か『河内』かと言われれば『河内』に属します。
地名に見られる『津』の文字は、もとはこの場所が『河内湾』(のちの河内湖)であったことに由来しますると思われ、同じ鶴見区に『浜』という地名があるのも、同じような由来と考えられます。

いずれにせよ、一見の価値ある『名地車』に違いない今津のだんじり、また曳行される日には是非とも見て頂きたい1台です。

今回お世話頂いた青年団の皆様、ありがとうございました。
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