平成14年に大変身!…その前の姿とは?《前編》

『春寒の 弥生三月 花まだき』
3月に入りましたが、まだまだ寒い日が続きます。
東大寺の二月堂では『修二会(しゅにえ)』が始まったのをコロっと忘れておりまして、ニュースを見て『もう始まってるやん!』と焦った次第。

今年は久しぶりに見に行きたい!
さ、ブログの方は前回お話させて頂いた通り、生野区は清見原神社の氏地である3台のだんじりを見学させて頂いた、その第2弾となります。
前回のブログですが、一部を書き直しました。
腹見のだんじりの製作年代や大工等に、加筆箇所があります。
またご確認ください。
さて今回ご紹介するのは清見原神社の境内にだんじり小屋を有する大友のだんじり。

このだんじり、製作年代から入ると明治34年、谷町の生玉あたりの大工《大清》により製作されたとなっていますが、今現在の姿見は平成14年に《池内工務店》により大改修された姿であり、新しい部材と古い部材とが入り混じっていて、一見すると明治期に製作されただんじりには見えない造りになっています。

ではまずこの大友村の歴史から紐解いて行きましょう。
前回のブログでも申し上げた通り、現在の生野区近辺におけるだんじりの歴史は杭全神社の夏祭の影響を受け、明治期に入ってから各村がだんじりを持ち始めた経緯があります。
現在の清見原神社氏地で最も早くだんじりを持ったのは片江村で明治24年頃。
続いて中川村が明治29年にだんじりを持ち、それに対抗した片江村が翌年に先代だんじりを売却し現在のだんじりを購入します。
そんな中、周辺の村に比べたらダントツに個数の少なかった大友村ではだんじりを購入するにも一苦労で、それでもどうにか新調だんじりとして手に入れたのは、中川や片江に比べれば小振りで、しかも二枚式の幕だんじりでありました。

新調当時の彫師はおそらく《彫清》一門、もしくは《辻田》一門の手によるものと思われます。
昭和25年、猪飼野の大工で《大重》の屋号を名乗った伊川重松の手により大改修され、この時に二代目《彫寅》頓名兼光により獅噛みを彫り替え、おそらくこの時に脇障子、隅障子なども彫り足したと思われ、見送り幕を外幕から内幕に替えたと思われます。

昭和57年には同じく猪飼野の大工で伊川重松の義弟にあたる《大浅》岡田浅三により修復されています。
そして平成14年、《池内工務店》による平成の大改修が行われ、屋根、通し柱、台などの部材を新調交換。

さらに虹梁の上に台輪を設けて化粧枡を施し枡合を入れ、見送りを幕式から三枚板に改め、土呂幕は一枚物に彫り替え、脇障子、隅障子なども一新されて現在に至ります。

獅噛みは昭和の改修にて彫り替えられたものとして、新調当時の彫物と思えるのは正面車板の龍と大屋根虹梁の龍、そして後面車板の『楠公子別れ櫻井の驛』が当てはまると思われ(懸魚に関しては判断を保留)、一台のだんじりに実に三世代の彫物が同居するという形になっています。

代表的なものとして、こちら見送り三枚板正面は見送り幕から図柄を引き継いだ『神武東征』で、一枚の絵を三面に分割して彫られてあり、正面がモチロン中央であります。


そして土呂幕は源平合戦から、こちらはお馴染み『義経八艘跳び』。

実は今回、こうしてじっくり拝見させて頂くにあたり、お世話頂いた大友清友会の皆さんのご好意で、だんじり小屋にて保存されてある大改修前の彫物を、特別に出して下さいました。

とゆー訳で長くなりましたんで、この続きは次回に譲ります。
(次回に続く)
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