元はもっと《大佐》っぽいだんじりでした

ちょいと日にちが空いてしまいましたが、まだ生野区は清見原神社氏地の『バイプレイヤーズ』のご紹介の途中でしたね。
昔からお芝居も映画も『バイプレイヤー』の存在ナシには成立しませんからね。
えーっと、腹見、大友と紹介して来まして、いよいよラストを飾るのは片江のだんじりです。
まずは姿見。

いかがですか?
生野区では平成16年に四條が現だんじりを新調するまでは、おそらく一番背の高いだんじりだったはず。

ほんじゃあ例によって片江の村の歴史から紐解いていきますかね?
明治42年に清見原神社に合祀されるまでの村社は『素盞嗚尊神社』で、現在の片江のだんじり小屋のすぐ裏手に鎮座していた様です。
片江のだんじりも片江の旧村も生野区なのですが、『片江小学校』だけは近鉄線の線路を北側へ越えた東成区に位置しているのをご存知でしょうか?
そもそも片江村とは、近辺の地域の中でも取り分け大きな村だったようで、その範囲はとても広かった様です。
東成区の深江の地名に見る『江』と、片江の地名に見る『江』は、同じ『江』を示していると思われ、それはズバリ、大阪城の最も東側に位置する外堀の事だった様です。
そんな片江村を、近鉄線が東西に横切った事で、片江村の一部が東成区に編入されてしまったのです。

片江村は元々財力もあり、現在の清見原氏地の村の中では最も早くだんじりを所有しており、明治24年にだんじりを購入しています。

それが現在の鶴見区・横堤のだんじりで、現在は改修によって姿見が変わっていますが、大工《大喜》の屋号を持つ宮崎喜三郎の作で、その木造りの仕方は腹見のだんじりと共通点があり、それ故、腹見の大工も《大喜》ではないかと推察したのです。

さて片江村より遅れること数年、明治29年に中川村がだんじりを所有します。
これは現在の中川のだんじりから見て先々代にあたるもので、住吉の《大佐》の手による立派なだんじりであったそうで、片江村はそれに対抗してすぐさま先代だんじりを売りに出し、翌年、明治30年に同じく《大佐》にて作り置きしてあったいわゆる『仕入れだんじり』を購入します。

それが現在も片江にて曳かれているこのだんじりであります。
大工は《大佐》十一代目・川崎仙之助の長男で、十二代目を継いだ川崎宗吉が手がけ、彫師は次男の下川安治郎が担当するという、兄弟で作事しただんじり。

獅噛み等は赤銅芳松の手が入っていると思われ、なかなか厚みのある顔立ち。
大屋根後面(主後)の獅噛みの顔つきをもっと発展させると、平野区の泥堂の獅噛みに近づくんじゃないでしょうか?

昭和の頃は原形を保っていて、もっと《大佐》型の姿見をしていましたが、平成元年に八尾の《川井工務店》により大改修が施され、現在の姿見になっています。

大屋根正面の拝懸魚などは、その時に彫り替えられたもの。

それでも、傾斜(こかし)をつけて組み込まれている車板など、随所に《大佐》の特色を残しただんじりです。

清見原神社の夏と秋の祭礼は日程固定で行われますので、土日じゃなければ見に行けない方も、平日の方が見に行きやすい方も、両方見に行くチャンスがあります。

また片江のだんじりは近年、中川のだんじりと一緒に『だんじり in 大阪城』にもレギュラー参戦してますので、また是非、これら清見原神社氏地のだんじりにも足を運んでみて下さい。

改めまして、今回じっくり拝見する機会を与えて下さいました片江青年会の皆さん、本当にありがとうございました。
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