春が来た!…楠公生誕地に『曳き唄』が響く!《其之壱》

おーーーい!3月も終わり近いというのに、なんだこの『寒の戻り』は!
おかげで桜の開花が遅れとるではないか!
そんな今月ですが、ようやく『だんじり界』にも春が訪れまして、だんじりシーズンが開幕しましたなぁ!

まぁね、思い返せば1月には奈良で『大立山まつり』があり、2月には神戸で御影西之町の会館完成を祝って弓場のだんじりが繰り出して来たり、貝塚では小瀬のだんじりの入魂式が行われたりと、それなりに『だんじり行事』は行われていたのですが・・・
『シーズン開幕!』と言うにふさわしかったのは、やっぱり3月19日(日)だったんじゃないですかね~?

『千早赤阪60周年』に加えて入魂式が6台!
待ちわびた春の訪れを一気に喜ぶような『爆発感』がこの日にはありましたね。
そんな訳で、今回は千早赤阪村の、『村制60周年記念』のだんじり曳行の模様をお届けしようと思います。

さぁて、例によって歴史のお勉強から。
村の東側に金剛山をのぞみ、豊かな自然に囲まれた千早赤阪村は1956年(昭和31年)に、千早村と赤坂村が合併して成立した村で、人口が少ないために『村制』であります。

2002年(平成14年)に富田林市・太子町・河南町での合併案が出るも、合意に至らず。
また2008年(平成20年)に河内長野市への編入合併案が出されるも否決。
それにより今なお、大阪府下唯一の『村』として存続しています。

ワタクシなんぞ、それだけで世界遺産なんじゃないの?・・・な~んて思ってしまうぐらい、今となっては『村制』を守り抜く事にこそ価値があるんじゃないかと思っております。

ほーら、こんな話をし出したら長いぞ~。
だんじり好きの皆さんにとっては、まずこの千早赤阪の地が、楠木正成ゆかりの地である事が大きいはず。

だんじり彫刻の題材として、南北朝時代の物語を扱った『太平記』は多くのだんじりに彫り込まれ、中でもこの千早赤阪の地を地盤に城郭を築き、北条氏と争った楠木正成をはじめとする楠公親子を描いた場面は、今も多くのだんじりファンを魅了し続けています。


そしてさらに!・・・
現在の南河内地域のだんじり祭で欠かせない、『曳き唄』でありますが、そのルーツを探るに、ここ千早赤阪の地は外せないんであります。

昭和の頃、ここ南河内一帯の祭礼において、マイクを搭載しての『曳き唄』はまだ唄われていませんでした。
現在の様に、マイクとスピーカーによって朗々と唄い上がる形式が導入されたのは平成に入った頃からだといわれ、最初にそれを導入したのは河南町のどこかの町(?)と云われています。
詳細は定かではない。

↑河南町・中のだんじり
元々、だんじり祭において河南町と千早赤阪との境界線はさほど明確ではなく、名物『比叡の前(へのま)』に千早赤阪、河南町、富田林からだんじりが集まるので、どこが『曳き唄』の元祖とは決めにくいのですが、この『比叡の前』への順番は近い順に、千早赤阪→河南町→富田林となっており、南河内一帯の一の宮とされる『建水分神社』の祭礼こそ、南河内の祭礼のベースである事は疑う余地もなかろうと思います。

↑昨年11月・河南町60周年
この『比叡の前』にて繰り広げられる各町だんじりの『でんでん』と呼ばれるパフォーマンス、そしてその後に演じられる『俄芸』が、南河内のだんじり祭の大きな柱なのですが、そこで用いられた『曳き唄』の元祖は、間違いなく『伊勢音頭』でありましょう。

それは現在の様に曳行しながら・・・というものではなく、『奉納唄』として、また民衆の『祭り唄』として、生声で唄われて来たものだと思われます。
それは河南町や富田林の各町よりも、より氏神様に近い千早赤阪の各町の方が、古くから『伊勢音頭』を唄い継いで来たのでないかと推察するのです。
よって、ここ千早赤阪を『曳き唄』発祥の地ではないか?…と、ワタクシは睨んでおるのですが、如何でしょうか?

さぁ、小難しい話が続きましたけど、次回はいよいよ、その60周年記念行事の様子をお伝えして行きますね。
今回はひとまずここまで・・・
(次回に続く)
<<前の記事 | 次の記事>> |