茶屋のだんぢり漫遊録

目次

春が来た!…そのシリーズまだあるで~!





ついこの間まで寒かったのに、いつの間にやら桜が満開を迎え、早くも散りつつあります。



花の命は短かけれど、季節の移り変わりが早過ぎて、散り急ぐ命になんだか取り残されてゆく思いが致します・・・




そんな4月ですが、ブログ的には触れておきたいだんじりが目白押し。

一つ一つご紹介して行かねば、何のために足を運んだのか分からなくなります。



ちゅー訳で・・・


この春の訪れを告げた3月19日(日)にお披露目を行なっただんじり、まだまだありまんねん。

だから今回もそんなだんじりをご紹介せてゆきます。



こちらは藤井寺市北條のだんじり


写真は3月19日(日)の午前6時過ぎ



だんじり小屋のある黒田神社の鳥居前へ搬入された時のもの。


この日、昼間は気温も上がって春の気候だったのですが、この時間はまだまだ気温も低く、まるで真冬・・・


しかし、修復の完了した我が町のだんじりを出迎えるため、祭礼関係者は女子部も含めみんな『正装』にて整列。



だんじりを運んで来てくれたトラックが立ち去ったのを見届けてから、青年団は総出で入魂式ならびに記念式典の準備に取り掛かります。

その時間帯を利用して、ワタクシはだんじり本体を鑑賞させて頂きます。



この北條のだんじりは、元は同じ藤井寺市の道明寺白組の先代だんじりで、道明寺白組の現だんじり新調に伴い、平成22年に購入。

10月11日に道明寺にて昇魂式が行われた後、曳行にて北條へとやって来ました。




道明寺白組となる前は『道明寺南』のだんじりであり、製作年代は幕末から明治頃とされ、大工は堺のだんじり大工と目されています。



いわゆる『堺型』(箱だんじり)と呼ばれるだんじりで、舞台下から台にかけては通し柱6本に加え、前柱と中柱の間にもう一対の柱を持ち、それゆえ土呂幕は片側3面を持つ形式。




元は堺のどこかで曳かれていたものと思われ、道明寺南が、明治末期に購入したと言われています。

彫師は不詳とされており、ノミ跡から《服部》一門もしくは《相野》一門とも云われていますが、どうですかね?



《相野》と言われれば、そうかなぁ?・・・とも思える反面、違うんちゃうん?・・・て思える部分も感じられます。



この小屋根の獅噛みや、旗台などは、《彫又》っぽい気もします。






どうも確証が乏しいので何とも言えませんが、ワタクシ自身が見ておきたかった1台なのです。

と言うのもワタクシ自身、なかなか藤井寺市のだんじりに縁が薄く、こういう機会に見とかなアカンなぁ・・・て思っていたのです。



幕末や明治期に製作されたと言われるだんじりは、なかなか味わい深いものです。


今回の修復は文化庁による『地域活性化事業』の助成金を活用し、《大下工務店》にて修復



台木の新調交換に加え、全体の洗いと締め直し、彫物の欠け継ぎなどが行われました。



さてワタクシ自身はこの後、千早赤阪の中津原へ行ったり、河内長野の高向上町へ行ったりしていたのですが、午前10時頃より行われた入魂式では、子供だんじりもお目見えして据え置かれました。




この日はだんじり本体に幕などの飾り物は施さず、美しくリニューアルされただんじりを、出来るだけそのままの姿でお披露目されました。





午後2時過ぎ、あちこちで取材のハシゴをして来たワタクシが北條に戻って来ると、お披露目曳行の真っ最中。



南河内名物の『曳き唄』を響かせながら、活気のある曳行が行われていました。



藤井寺市あたりの『曳き唄』の歴史はそれほど古くはないはず。

大和川より南側の地域なので『南河内』に分類されるのですが、『曳き唄』が根付いたのは、おそらくここ5年~10年といったスパンではないでしょうか?



今や『南河内』全域から奈良県葛城市あたりまで普及した『曳き唄』はもはや、だんじりの曳行スタイルの、大きな柱となった事は疑いないでしょう。


大変盛り上がったお披露目曳行は午後3時半頃に無事終了。





北條のみなさん、この度はだんじり修復、おめでとうございます。

信濃屋お半悠遊!だんじり録
<<前の記事 次の記事>>