名地車、獅噛み変えても名地車

えーと、昨日は各地で入魂式、お披露目曳行などの数多くの『だんじり行事』が執り行われました。
中でも岸和田市の中北町入魂式は、毎度のことながら沿道に溢れかえる見物客の間を縫うようにだんじりが駆け抜け、早朝から大変な賑わいを見せました。

その他にも各地で行われた『だんじり行事』は、またこのブログでその模様をお伝えしてゆきます。
今回のブログはまだご紹介し切れていない3月19日(日)に入魂式ならびにお披露目が行われただんじりのご紹介。

東大阪市は『盾津(六郷地区)』の、川田のだんじりをお届け致しましょう。
ワタクシ、前にもこのだんじりについてブログで触れた事があります。
この東大阪市は六郷地区の祭礼日に、ワタクシ自身がなかなか足を運ぶこと叶わず、2014年の『だんじり in 大阪城』にて久しぶりにお目にかかれたこのだんじり。

じっくりまじまじと拝見させて頂いて、その魅力にハマってしまった事を、当時のブログにて書き綴りました。
その川田のだんじりがこの度、文化庁による地域活性化事業の助成金を活用し、岸和田の《隆匠》にて修復が行われました。

またまた歴史をざっと振り返るのですが、まずはこの川田が属する『六郷地区』と西側に隣接する『成和地区』とをまとめて『盾津』と呼びますが、この地名は神武天皇の時代にすでに存在しており、その時代のこの地域はまだ『河内湾』と呼ばれる海に面した土地ありました。
そう『河内湖』になるさらに前の時代のこと。
『古事記』によると、神武東征の折、神武天皇は船にて『浪速の渡(なみはやのわたり)』を越えて河内湾に進入し、日下の盾津に上陸したとあります。
そんな歴史深い土地ではありますが、
川田にとってこのだんじりは二代目にあたり、先代は『北河内型』であったそうです。

このだんじりは明治25年に住吉《大佐》十一代目・川崎仙之助により製作されたもので、彫師は《小松》九代目で、二代目の小松源助を名乗った岡村平治郎が責任者となり彫り刻んだ作品。

平成6年に《植山工務店》にて大改修が行われ、この時に彫物を除くすべての部材を新調交換するという大掛かりな修復でした。
また平成17年にも《植山工務店》にて洗いと締め直しの修復。
今回の修復は特に、だんじり正面屋根廻りの改修が行われ、大屋根正面の獅噛み、拝懸魚、隣懸魚などが『復元』という形で新しく彫り替えられました。


修復彫師は《木彫 山本》の山本仲伸 師。

拝・隣両懸魚の図柄である『櫛名田姫かと八岐大蛇』は変わらずに復元。

『上地車』の場合、大屋根正面の獅噛みはそのだんじりの『顔』となるので、その獅噛みが変わるとだんじり本体の雰囲気も変わるものです。

もし獅噛みだけでなく、屋根そのものが別の形状に替えられ、懸魚の図柄も変更されると、もう『別のだんじり』と言っても過言ではないぐらい、そのだんじりの印象は変わるものなのです。
さて、こちら川田のだんじりは、ワタクシ個人的にも惚れ込んだのが、こちらの三枚板に彫り込まれた『太平記』より、『菊水三人姿』の彫物です。

正面の『楠木正成出陣』をはじめ、楠木正行、楠木正季のそれぞれ三場面は、このだんじりを『名地車』と言わしめる要因で、誠に秀逸な作品です。


また脇障子、隅障子は三枚板とは別の場面で、脇障子は平敦盛を呼び戻す熊谷次郎直実。

よく見る図柄とは配置が逆なのであります。

隅障子は佐久間玄蕃の秀吉本陣乱入となっています。

今回の修復で正面屋根廻りの彫物は入れ替わりましたが、土呂幕を含め、これらの彫物は健在。

『名地車』との誉れ高きだんじりは、獅噛みを替えても『名地車』に変わりありません。
今年も秋の祭礼をはじめ、11月の『だんじり in 大阪城』にもおそらく参加するであろうと思われますので、リニューアルされた川田のだんじりに、ぜひご注目下さい。

川田の皆さん、この度はだんじり修復、おめでとうございます。
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