だんじり新調以来、初めて踏み入る神社

今回のブログは、ようやく4月に入ってからのネタとなります。
ネタ的にはかれこれ1ヶ月以上の開きがあり、なんだか『周回遅れ』な感じもしますが、来月には追いついて来るんで、このペースで行きますよ。
今回お届けするのは4月2日(日)!
岸和田の旧市地区では、早朝から上町の入魂式が行われたその日・・・

同じ岸和田市は山直南地区になるんですが、1台のだんじりが小屋から曳き出されようとしていました。
そこはこちら!

包近町であります。
上町の入魂式が終わってからでも時間的にも十分余裕がありまして、午前9時でこざいます。

曳行といっても大規模なものではないので私服による移動曳行なのですが、それでも青年団、後梃子、若頭総出となって、小屋からだんじりを曳き出します。
この包近町のだんじりが向かう先はですね~、このだんじり新調以来、初めて向かう場所なんです。

そこは、包近町の町内にある神社で、『楠本神社』と呼ばれる場所。

町内とはいえ、周りに民家のない広々とした場所に鎮座する、包近の村の鎮守(村社)なんですな。
見てくださいよ!この風景!

包近町の特産品である『桃』を生産する、一面の桃畑の間をだんじりがゆっくりと曳かれてやって来ます。
これが楠本神社へと向かう唯一の参道なのです。

まぁ確かに岸和田市は海から山まで南北に長い市なので、山手に来ればこんな風景もありましょうが、さっきまで上町のだんじりが駆け抜けていた旧市地区から移動して来ると、こんな風景の中をだんじりが曳かれております!
祭礼時の勇壮な曳行ではなく、町内の子供たちが綱を持ち、その横をお父さんやお母さんが歩き、おじいちゃん、おばあちゃんの姿まで見えます。

こんな風景に出会えただけでも、この日に来た甲斐があったというもの。
包近町は、毎年10月の祭礼に於ける宮入りは別名『五社詣り』と呼ばれる『積川神社』への宮入りを行なっております。
積川神社はこの山直郷の郷社であり、また『和泉五社』の一つに数えられており、(和泉四宮)山直南地区の祭礼はこの積川神社の祭礼として行われている側面があります。
そのため包近町のだんじりも、祭礼2日目の午前に行われる宮入りは、積川神社を目指して片道4km近い道のりを一直線に上がって行きます。
そのため、祭礼日にこの楠本神社へ宮入りする事はなく、先代だんじりの時代には来た事があるとは聞きましたが、平成14年に現在のだんじりを新調してからは、楠本神社へやって来るのは今回が初めてであるそうです。

今回、この楠本神社へ包近町のだんじりが曳き入れられるのは、ここ楠本神社が平成の大改修を終えたその祝賀記念と、毎年この時期に行われている子供たちのイベントを兼ねての事でした。

『楠本神社』の御祭神は菅原道真などが祀られているのですが、その右側に『包近八幡宮』があり、楠木正成が戦勝祈願にこの地を訪れ、武具や菊水旗などを献上されたと云われています。

それ故、現在曳行されている包近町のだんじり・・・
彫物の題材を楠木正成をらの活躍を描いた『楠公記』に求めており、また随所に名産の桃をあしらっただんじりなのであります。

平成14年に《植山工務店》にて製作されたもので、先代棟梁・植山良雄 師が最後に手掛けただんじりとされ、完成を見ることなく永眠されております。

彫師は《木彫 岸田》岸田恭司 師を責任者に、《木彫 近藤》近藤晃 師などが加わり製作されました。

大屋根正面枡合には、先述した『楠木正成包近八幡宮にて戦勝祈願』が彫られてあり・・・

正面土呂幕に『楠多聞丸出陣』をはじめ、腰廻りから見送りにかけて、随所に『楠公記』の場面が彫り込まれ、他に類を見ない作品となっています。

これは土呂幕右『七条朱雀尊氏宿所焼き討ちに侍女於千賀凛々しくも応戦す』という場面から、足利尊氏による七条朱雀にあった宿所の焼き討ちに際し、果敢にも応戦する侍女の姿です。

まぁ、個人的な好みですけど・・・あのー、
・・・女性が戦うのん・・・好きです。
『泉州十月祭礼』では別の地区に身を置くワタクシとしては、祭礼日にもなかなか拝見できないだんじりでありまして、こうした機会に見せて頂く事が出来て、貴重な日でありました。

早朝には凍えるほど寒かったこの日でしたが、もうこの時間にはすっかり春の気候に包まれまして、穏やかな晴天のもと据え置かれただんじりを遠巻きに眺めながら、包近町は楠本神社を後にしました。
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